笹舟 5
朧月が浮かぶ、しんと静まり返った夜だった。
伊作はタソガレドキの地へ行くことを同室の留三郎にだけ告げた。つまり無断外出だ。きっと、無断外泊にもなるだろう。
先生方に余計な心配をかけたくないという思いがあった。
しかし、黙って出かける一番の理由は、伊作がタソガレドキに招待されて行くのではないから、というところにあった。いつも雑渡がそうしているように、伊作もタソガレドキへ侵入するのだ。
未熟とはいえ伊作だって忍者の端くれだ。もしかしたら情報を盗みに来たと思われるかもしれない。万が一、そのことが原因でタソガレドキとの間に諍いが起こったとき、すべての責任は伊作一人が負うつもりでいる。
そのためにも誰にも許可を取らず、黙って行かなくてはならなかったのだ。
きっと、先生にはすぐに気付かれてしまうだろう。
それでも。それでも。
誰かに心配をかけるという負い目よりも、雑渡に会いたいという気持ちの方が勝っていた。
必要最低限の道具と薬を持って出かけようとした伊作に、留三郎が声をかけた。
「無茶すんなよ」
「うん」
「でもほどほどに無茶して気張れよ」
「どっちだよ」
伊作は笑った。久しぶりに笑ったかもしれない。
「何があっても絶対に帰って来いよ。ちゃんと帰ってくるのが立派な忍者なんだぞ」
「分かってる」
はっきりとした声で応えた伊作に、留三郎は不安そうな顔を向けた。
「卒業試験に間に合うように帰って来いよ。ちゃんと学園を卒業しなきゃ……一緒に卒業しよう」
伊作はうなずき笑った。
すかさず留三郎も笑ったので伊作は味方を得たように安心した。
本当は何から何まで不安だった。
雑渡の明日も、自分の明日も不透明だった。
なるべくなら目を背けていたかった。
でも、今は違う。
伊作は自分がどうしたいのかが手に取るように分かった。
きっと雑渡ともう一度話をしてみれば、もっと分かるようになると思う。
タソガレドキ領は忍術学園から山をいくつか越えた場所にある。その昔、黄昏時に見る夕日がたいへん美しかったためその名が付いた。いつだったか、伏木蔵が伊作に言ったとおりだ。まあ、今は夕日よりもいくさの強さと過激さで有名な城という認識が一般的らしいのだが。
伊作は朝靄の残る丘に立っていた。そこからはタソガレドキの全景とまではいかないが、領内でも特に活気があり賑々しい場所を窺うことができる。
切り立つ山々が田畑の広がる平野をぐるりと囲んでいる。その平野のほぼ中央、なだらかな丘陵地にタソガレドキ城の姿が見て取れた。もう少し春めいてくれば、田畑は鮮やかな緑青になり秋には金色の海になる。そこへ浮かび上がるタソガレドキ城。想像するだけでもうっとりしてしまう。
伊作は雑渡の守るべきもの、雑渡の帰るべき場所を初めて見た。そうすることで言葉よりももっと鮮明なものに触れた気がした。ここは伊作の幸せを願い、伊作から遠ざけられた場所であり、また、雑渡が自らの命運を共にすると決め、守り続けていく場所でもある。
伊作のいない場所。
実際にタソガレドキの地を踏みしめているというのに、なぜだろう。雑渡との距離がぐんと遠くなってしまったような気がする。
伊作は頭を一振りした。場所を移動する。
タソガレドキの城下は普通に賑わっていた。細い街道に沿って市が立ち、そここで活気付いた声が飛び交う。しかし、そこから少し外れて村落に入ると人がまったくいない。雑渡の居所など知らないから手当たり次第に村や里を巡っていたのだが、出会うのは女と子どもと年寄りが主だった。
不審に思ったところで、伊作ははたと立ち止まった。
そういえば、確かタソガレドキはいくさの最中ではなかったか。
その事実に気づいたとき、伊作は自分の勇み足を呪った。
「なんという不運」
へとへとになった体で誰にともなく呟いた。夜も明けないうちに忍術学園を抜け出したのに陽はすっかり高くなっている。
出直そう。
そう思い踵を反したとき、
「善法寺くん」
背後から大声で呼ばれた。驚いて振り向くと雑渡の腹心の部下である諸泉尊奈門の姿が見えた。尊奈門は険しい表情でこちらに向かって走って来る。
「尊奈門さん」
「ちょうどよかった。今、君を呼びに忍術学園まで行こうとしていたところだったんだ」
尊奈門は息切れこそしていないが、その顔には焦りの色が濃く出ていた。
虫の知らせだろうか。何も聞かされてはいないのに、伊作に悪寒が走った。
「さあ、早く」
「え」
「とにかく走って」
尊奈門は伊作の腕を掴んで引っ張った。その勢いのまま、伊作は訳も分からず尊奈門に走らされた。
「一体どうしたって言うんです。それにタソガレドキはいくさの最中ではなかったのですか」
「いくさはまだけりがついてない。だけど仲間に任せてあるから大丈夫だ」
「任せたって、どうして……タソガレドキ領内で問題でも?」
忍びが現場から退くなんて、よほどの問題が起こらなくてはあり得ない。
よほどの問題って何だ。……何だ。何が起こった。
尊奈門は伊作を振り返らず続けた。
「領内は異常ない。だが、組頭が倒れた」
一瞬、何を言われたのか分からず、伊作は言葉を失くした。頭の隅が思いきりなぐられたようにジンジン痺れている。
雑渡さんが、何だって。
伊作は自分が嫌な汗をかいているのがはっきりと分かった。
目の前をぐんぐん過ぎていく柳の木も細い川も橋も道も、すべてが恐ろしいもののように思えた。こんなにも不安になったことはなかった。
伊作の心中を察してか、尊奈門が落ち着いた声で言った。
「別に討たれたわけじゃない。毒を盛られたわけでもない。熱が上がったり下がったりして……。でも風邪ではないみたいなんだ。いつも飲んでる薬も効かないし、他の薬草を試してみたけど駄目だった。私たちにはもうどうしようもないんだ。評判のある医者を訪ねたいところだけど、組頭が動けないことを外部に漏らすわけにはいかない。タソガレドキの隙を教えるようなものだから。私たちは君の力を借りるしか道がないんだ」
尊奈門は一息にまくし立てた。
伊作は足元が崩れて地の底へ落ちる思いがした。しかし、しっかりしろ、と自分の頬をつねった。
尊奈門が伊作を頼りにしてくれたことが、いくらか伊作を気丈にさせた。
「尊奈門さん、心細かったでしょう」
伊作は走る尊奈門の背中を見つめて言った。
「平気だったと言えばそれは嘘だよ。でも私は組頭の部下だから。組頭のためだったら何だってする。たとえ、組頭が善意で遠ざけた人間をもう一度引き戻すことになっても……。善法寺くんには本当に悪いと思ってる。でも――」
尊奈門は伊作の腕を握る手に力を込めた。
「今、私たちには君しか頼れる人はいないし、君を信じていれば間違いないと思ってる」
小さな川に架かる橋を渡ると目の前に田畑が広がった。畦の先に森を背にした大きな屋敷が見えてきた。おそらくあれが雑渡の住まいだろう。
走る速度はゆるめず、尊奈門はほんの目の端で伊作を窺った。
「ここまで連れてきておいて今更だけど、組頭を助けて欲しい」
「まかせてください。僕は保健委員ですから」
伊作ははっきりと応えた。
尊奈門の表情は見えなかったが、その肩から力が抜けていくのが分かった。
つづく
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