呼ばふ 4
示し合わせたように二人して息を呑む。まさかこんなところで出会うとは思わなかった。
驚くばかりの伊作とは対極に、雑渡が目を瞠ったのはほんの一瞬だった。僅かに顔の包帯を歪ませると、すぐさま踵をかえして何事もなかったかのように街道を歩き出す。それは伊作がきょとんとしてしまうほど、冷たい対応だった。少しずつ遠ざかっていく男が、果たして本当に雑渡であったのか、それすらも疑わしく思えてしまう。人違い? しかし、伊作はずぐさま自分の考えを否定する。そんなわけあるか、とかぶりを振った。見間違うはずはないのだ。伊作が雑渡を見間違うはずがない。絶対的な自信があった。ほんの一瞬見ただけだとしても、遠くから眺めるだけだとしても、何十年後に会っても、どんなに姿形が変わっても絶対に分かる。この身体が雑渡の雰囲気を覚えているのだ。
雑渡の草鞋の底面と砂利の擦れ合う音を聞きながら、伊作ははっと我にかえった。
「待って下さい」
思わず呼び止めていた。声のほうから勝手に出てきたのだ。
雑渡にぞんざいな態度をとられたことなど、当に忘れていた。ただ声が聞きたかった。短くてもいい。話がしたかったのだ。伊作などまるで見えていないような雑渡のことを、引き止めるのに必死だった。
伊作は走っていって、雑渡の麻の裾を掴む。
「あの、先日は本当にすみませんでした。それで、あの――」
ずっとこころに引っかかっていた謝罪の言葉をようやく口に出来た伊作であったが、続けようとしたその言葉を続けることは出来なかった。
裾を掴む伊作の手を、まるで虫を除けるかのようにして、雑渡の手が払ったからだ。
「人違いだ」
人違い……。
雑渡が冷たく言い放った一言を、頭の中で反芻する。
振り払われた手を信じられないことが起きたように見つめる伊作に、雑渡が少しだけこちらに顔を向けた。
笠の下から僅かに覗いた眼は、しんと静かで氷のように冷たかった。
瞬時に背中が粟立つ。
雑渡の眼だと思った。雑渡の目は一つしか視えていないけれど、その色は一つじゃない。夏草の上に寝転ぶようなまどろむ眼。花の甘く香るようなやさしい眼。深い渓谷に落ちていく鷹のように鋭い眼。青くどこまでも冴え冴えとした冷ややかな眼。
そのどれもが間違いなく雑渡の眼だったし、そのどれもが伊作は好きだった。
頼まれてもいないのに、身体が寄り添いたがってしまう。
それなのに。
先日に引き続いて、この人は僕を拒んだ。
拒んで……じゃあ、その先は? 遠ざかって存在を消されて、忘れられてしまうのか。
全部帳消し。
伊作の想いも初めから無かったことにされて、そもそも二人が出会った事実も嘘にされて、現実から思い出を差し引かれて、空っぽ以上の空っぽになって。
時の流れが互いの名さえ風化させる。覚えていなければ、諦める以前の問題だ。
その紛れもなく世知辛い現実だけが圧し掛かってくる。足が影に縫いとめられてしまったかのように動けなかった。喉もからからに乾いている。最早、干乾びた言葉しか生まれてこなかった。
「僕のこと、嫌いですか」
縋るようにして伊作が見つめると、雑渡は心底うんざりしたようなため息をついた。
「お前なんか知らないと言っている」
さらに伊作が追い縋ろうとすると、雑渡は伊作を突き飛ばした。そのまま逃げるようにして去っていく。一度も伊作を振り返らなかった。
行っちゃった……。
伊作は尻餅をついたまま、小さくなっていく雑渡の背中を見つめていた。今起こったことはどこかぼんやりとしていて、まるで夢でも見ているみたいだった。だだし、夢は夢でも悪夢の方だ。夢なら覚めろという願いも、したたかに打ち付けた尻の痛みがそれを易々と砕く。
雑渡に偶然出会えたことが嬉しかった。人違いなんかではなく、正真正銘、紛れもなく雑渡に出会えたのだ。
けれど今は、雑渡であったことが悲しかった。それこそ人違いであってほしいと思った。
伊作を突き飛ばしたのだ。思い切り。何の躊躇いもなく。邪険に。何よりも、伊作の名前を呼ばなかった。「お前」と。はっきり、そう言ったのだ。
伊作の目から涙が零れた。
はっとして辺りを見回すが、人っ子一人居なかった。先ほどまで茶店に居たはずの男たちの姿すら見えない。
伊作は歯を喰いしばって泣いた。
尻よりも腕が痛んだ。薬草摘みに出かけたとき、雑渡に手当てしてもらった傷だ。その治ったはずの腕の傷が思い出したように痛み始めたのだ。
この傷をやさしく手当てしてくれた手と伊作を突き飛ばした手が同一のものだと思うと、どっと悲しみが押し寄せてくる。
あの限りなく慈愛に満ちた十指がこうも豹変するなんて、到底信じられなかった。あのとき、手当てしてくれた雑渡のやさしさが嘘ばかりだったとは思わない。ほんの少しでも本当の気持ちがなければ、あそこまで献身的に根気強く手当ては出来なかっただろう。
けれども。
雑渡が伊作を突き飛ばしたこともまた、事実なのだ。
受け容れられる前に、排除された。
斬りつけられる以上に痛い。そんなわけあるはずないのに、けれど痛いのだ。
雑渡の十指が、眼が、言葉が伊作の皮膚に食い込み、内側をこれでもかと抉った。
信じられなかった。
けれど、現実の世界では信じられないことが普通に蔓延している。
悪夢よりも性質が悪いのが現実というものかもしれない。
伊作は雑渡に背を向けた。黙々と帰路を歩き始める。爪が立つほどこぶしを握り込み、ただ小石の目立つ道だけを睨んでひたすら歩いた。そうしないと大声で泣き喚きそうだったからだ。
雑渡に嫌われたことが悲しかったのもある。けれど、それ以上に怖かったのだ。人の気の変わりようが怖いと思った。身の回りにあるものの、幻と現実の区別がつかない。それが恐ろしくて仕方なかったのだ。
何が本当で何が嘘か分からない。
今度雑渡に会ったとき、頬をぶたれたら。もし、斬り付けてきたら。
伊作の知っている雑渡でなかったらどうする。
こころが痛んで、もう信じる意味さえ分からなくなっていた。
それでも。それなのに。どうしてか。
ほんの気まぐれでも気の迷いでもいい。何でもいいからもう一度、名前を呼んで欲しかった。もしかしたら……。もう二三歩行けば……。背中越しに雑渡の声が伊作を呼ぶんじゃないか、と淡い期待を抱かずにはいられなかった。
つづく
この記事にトラックバックする