朱―アカ―
尊奈門は激しい渇きに襲われて目を開けた。汗が眉間を伝う。うすぼやけた視界に天井が見えた。部屋に灯りはない。しかし、煌々と照る月がその役割を果たしていた。
頭が痛い。おまけに腹に疼痛があった。そこが焼けるように熱い。
はて、と考えて思い至った。忍務から帰還する際、森で倒れたのだ。それから……。
「目え、覚めたのかよ」
廊下から声がした。月明かりで逆光になっているせいで顔は見えない。だが、声だけで誰かは分かった。
尊奈門はしゃがれた声で言った。
「……高坂さん」
「ひどい声だなあ。いつもの小鳥のさえずりが台無しだぜ」
こんなときでも嫌味を忘れないのが高坂だった。
笑いながら首を高坂の方に向けると、尊奈門の額から何かがずり落ちた。てぬぐいだ。
「おい、頭冷やしてんだから動くなよ」
淡々と言うと、高坂は手に持っていた桶を尊奈門の傍に置いた。ずり落ちたてぬぐいを桶の水で絞り、また尊奈門の額にのせた。
「しっかし、ひどい怪我だったぜ。腹えぐれてた」
「死に損ないました、ね……」
「本当だぜ。お前ってば悪運強いのな」
高坂が尊奈門の髪をわしゃわしゃと撫でた。明瞭ではない尊奈門の視界でも、高坂が泣きそになっているのが見て取れた。
尊奈門は笑った。
「組頭に助けられました。そうだ。組頭は今どこへ」
高坂が顎をしゃくった。高坂から見て、尊奈門を挟んだ反対側だ。視線だけをそちらへやると、そこに雑渡がいた。尊奈門の掛け布に崩れるような体勢で寝ている。
「ずっとお前を看てたんだ」
尊奈門は目を見開いた。雑渡はすっかり疲弊し、消耗しきっていた。
「あとは俺たちがやるっていうのに頑として聞いちゃくれなくてさ。食事も睡眠もとらずにだぜ。大体、無茶なんだよ。数日、お前を探して走り回ったその身体で、さらに看病しようだなんて、組頭の方が倒れるっての」
高坂が肩をすくめた。
尊奈門は息が詰まった。
自分なんかのために。こんな取るに足らない部下一人のために。雑渡の手のあたたかさが今にしてまざまざとよみがえってくる。一緒に帰ろうと言ってくれたあのあたたかさ。
自分は見捨てられてもおかしくなかった。そういう状況だった。そういう世界だ。そのことは尊奈門自身、よく分かっている。必要であれば仲間を裏切り見捨てることもある。我々は駒に過ぎない。そう言ったのは組頭だったはずだ。なのに。
この人は私を探してくれた。いのちを助けてくれた。どうして。
尊奈門は痛む手を伸ばし、そっと雑渡の髪に触れた。
「なんで私を見捨てなかったのでしょうか」
「お前、そんなこと死んでも組頭の前で言うなよ」
「死んでもって、今この状況でそれは洒落になりませんよ」
軽口をたたく尊奈門に、高坂は意外なほど厳しい顔をした。
「確かに、俺たち忍者は忍務を優先させる生き物だ。ガキの頃から耳にタコができるほど言い含められてきた。でもな、そんなに簡単に仲間を切り捨てられねえよ。そうだろ。尊奈門。お前だったらどうだ。俺を見捨てるか? 見捨てるっつったら殺す」
「質問しといて、選択肢がないんですけど」
「俺でも、お前が今にも死にそうで虫の息でも、多分助けるぞ」
「そこは絶対って言ってくださいよ」
「だから、いいんだ。お前は、どうして、とかくだらねえこと考えなくてもいいんだ。生きてたんだからそれでいいんだよ。儲けもんだと思っとけ。分かったな」
高坂が尊奈門の額をぺちっと叩いた。いつものむすっとした表情であったが、きっと照れているのだろうな、と思った。
尊奈門は嬉しくなった。腹の疼痛が治まったわけじゃないけれど、それでも身体のほうはなんだかすっきりとした感じだ。
森で意識が朦朧としたとき、もう自分は駄目なのだと思ったとき、帰りたいと思った。生きたいと思った。そして今、自分は再びここにある。タソガレドキに。雑渡の許に。
また、仲間と共に生きていられる。そう思うと自然と笑みが浮かんだ。
「私、もっと頑張りますね。高坂さんなんてすぐに追い越しちゃいますから」
「おいおいあんまり不用意な発言すると、出る杭は打たれるぜ」
さり気に怖かった。
けれど、明るい調とは裏腹に、高坂の顔は沈んでいた。尊奈門の額にのったてぬぐいを取り替えながら言った。
「組頭は色んなものを失いすぎた。失くしてばかりだ。だから、尊奈門までも組頭から奪われていくのかと思ったら、すげえどん底な気分だった」
「高坂さん……」
驚いた。高坂がそんなことを思っていたとはにわかには信じられなかった。
「そんな。別に私なんか居なくても。私なんかより高坂さんや小頭の方がずっと頼りになります」
高坂は雑渡の方を見た。その表情はどこか懐かしむような、感傷にひたるようなものだった。尊奈門の視線に気づくと、高坂はゆるゆると首をふった。
「いや。そういうんじゃないんだ。腕っ節の強さとか、そういうんじゃない。俺じゃ駄目なんだよ。なんか、もっと、こう……。お前ってきゃんきゃんうるさいだろ」
「はっ?」
突然、悪態をつかれて尊奈門は睨みをきかせた。
「誰が犬ですか」
「いっつもうるさくて、明るくて、よく笑って――」
尊奈門の反論をきれいに無視し、高坂は続けた。
「あれだな。尊奈門は色でいったら、朱だ」
「朱?」
高坂は頷いた。
「知ってるか? 朱色ってのは、いのちの色なんだぜ。生命力の色だ。太陽の色だ。お前はさ、生きる力に満ち溢れてるよ。元気のかたまりみたいなヤツだ。お前を見てると自然と元気が出てきてやる気もでる。色のない景色にも、さっと色が付いちまう。不思議だよなあ」
しみじみとそんなことを言う高坂に、尊奈門は目を白黒させた。
そんな風に見られていたとは露にも思わなかった。
高坂はまっすぐに尊奈門の目を見て言った。
「だから、尊奈門は組頭の傍にいろよ。あの人にとってお前は生きる理由なんだよ」
「何ですか、ソレ」
「酷い火傷してさ、片目も失くして……。ぼろぼろじゃないか。組頭は一度死んだも同然なんだ。もう、とっくの昔に引退してもよかったんだよ。それなのに、まだ忍者にしがみついてる。あんまりで見てられなかったから、なんで辞めないのか訊いてみたことがある」
尊奈門はごくりと息をのみ込んだ。
「何で、辞めないんですか」
「まだ、見たい景色があるんだってさ」
「……見たい、景色」
その光を失っていない方の目で。そこに映したいものとは一体、何なのか。まるで見当がつかない。あの人の健康を、もしかしたら大切な人も奪っていったかもしれないこの世界で、まだ何かを信じているのだろうか。まだ何かを求めているのだろうか。
首を傾げる尊奈門に、高坂は笑って言った。
「お前のことだよ、尊奈門」
「わ、私ですか」
「ああ。明言はされなかったがな。でも多分そうだと思うぜ。組頭はお前の成長する姿を追いかけていたいんだ。きっとな。失くしてばかりの組頭にとってお前は、希望なのかもしれないな。お前が組頭のぼろぼろな部分を埋め合わせてきたんだ。お前の底なしの明るさは組頭の生きる支えになる」
尊奈門は目をぱちくりさせた。とてもじゃないけれど、自分にそんな魅力があるとは思えなかった。それでも、どうしてか、こころが慄えた。
朱色。朱。アカ。
いのちの色。しるべの色。
自分は組頭の生きていく目印になれるだろうか。組頭が迷ったとき道を示せる力があるだろうか。
分からなかった。けれど、一つだけはっきりしていることがある。
尊奈門は生きている。
あの日、森の中で朱い色と雑渡に救われた。その救われたいのちを無駄にはしない。たとえ、この次に見るアカが血のアカであっても。
高坂が雑渡に掛け布をあてた。相変わらず気持ちよさそうに寝入っている。
いつの間にか、月は傾いていた。夏虫が静かな声で鳴いていた。
終わり
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