水棲生物
「あー、また逃げられちゃいましたね」
大きなため息とともに伊作がぼやいた。手にした釣竿の先には餌だけをとられてしまった釣針が虚しく揺れている。紺の小袖を着た背ががっくりとうなだれた。
「釣ってやろうって思うから駄目なんじゃないの?」
隣で伊作同様、川に釣竿を垂らした雑渡が薄墨の筒袖をひらひら振りながら言った。
深くも浅くもない川の水は澄んでいた。底の砂利が夏の陽に照らされて輝いている。そこへ二、三匹の鮎が銀の鱗を光らせて泳いで来た。伊作はそのくねる鱗を睨みつけた。
「こうも魚が丸見えじゃあ、気も急きますよ。いっそ、手で掴んだ方が早いかもしれません」
「それじゃ釣りの意味がないでしょ。伊作くんって意外にせっかちなんだね。釣りはねえ、こう、もっとのんびりとやるもんだよ」
目を閉じた雑渡が息をつくと、その手元で釣竿が引いた。川の流れに逆らわないようにしてゆっくりと引き上げる。川面に魚の姿が現れる。一匹の鮎がびちびちと跳ね回りながら、しっかりと針をくわえ込んでいた。それを見て、雑渡はにんまりした。
「ほらね。わたしみたいに無心になって釣らなくちゃ」
釣った魚を伊作に見せびらかしながら浅瀬につけた魚籠に放り込んだ。そこには先客の魚が三匹入っていた。
伊作がおもしろくなさそうに顔をしかめた。
「どうして雑渡さんだけ釣れるんですか。おかしいですよ。その釣竿、何か細工でもしてあるんじゃないですか」
「ずけずけと酷いことを……。釣りに誘ったのは伊作くんだし、釣竿を持ってきたのも伊作くんでしょ」
口を尖らせる伊作に雑渡は宥めるようにして言った。
「分かった。きっと伊作くんの釣り針を垂らしたところにいる魚はみんな頭がいいんだよ。だから釣れないんだ」
「それじゃあ、雑渡さんのところに来る魚はみんな頭が悪いってことですか」
「それもなんか微妙だけど。まあ、そういうことなんじゃないの。餌欲しさに後先考えずぱくついてくる貪欲な魚なんだろうね」
つまりは警戒心がないのだろう。自分の欲望に忠実になるあまり、餌の後ろで光る針を見過ごしている。その口を抉り自らを死に追いやる餌とも知らず飛びついてくる。欺かれているとも思わず。
そんなことを取りとめもなく考えながら隣を見ると、伊作は黙り込み俯いていた。釣り針も完全に引き上げてしまっている。今日、釣りをし始めてから伊作は一匹も獲物がない。自分ばかり調子に乗りすぎただろうか。雑渡は焦って口を開こうとしたが、それより先に伊作が呟いた。
「確かに、僕は頭が悪いし、雑渡さんは頭がいいですよね……」
一瞬、何を言われたのか分からずに首を傾げる。
「何?」
「あなたはちっとも釣れない」
伊作はまっすぐに雑渡を見て言った。
雑渡はまごついた。伊作の言わんとしていることが分かったからだ。言い返そうとする雑渡を伊作はさえぎった。
「あなたは釣れないのに、僕はあなたに釣られてばかり。こんなのは不公平です」
どきりとした。もしかしたら心臓の血管が縮んでしまったかもしれない。伊作が真剣にそんなことを考えていたとは露にも思わなかったのだ。だって、伊作はいつも楽しそうにしていたから。自分の半分も生きていない未熟な少年に、ひどく残酷な仕打ちをしてしまったような気がした。けれど、その動揺を顔にだすようでは忍者とはいえない。雑渡は出来る限りの平静を装って言った。
「君を釣り上げた覚えはないけどね」
「僕が勝手に釣られているんです」
「大丈夫。釣られてなんかないよ」
釣れるものならとっくの昔に釣って自分のものにしている。なぜそれをしないかって、出来ないからに決まっている。伊作を不幸にしてまで自分を充足させようとは思わない。絶対に。
雑渡の言葉に伊作は激しくかぶりを振った。一房、髪が口にかかる。
「傷つくってことは分かってます。でも、それでも、僕は自分の思いに忠実でありたいんです。口が抉れて目が乾いて息が出来なくなってもいいんです。言葉なんてしゃべれなくてもいいんです。雑渡さんのこころが手に入るなら、僕はぼろぼろになってもかまわないんです」
伊作は息を絞るようにして言った。本当にここで息絶えてしまうかと思うくらい力んでいた。
雑渡は痛々しい心持ちで目の前の少年を見つめた。どうあったって、伊作の気持ちに応えるわけにはいかないのだ。まっすぐな伊作の言葉が耳の奥に残って消えない。もう、いっそ、言葉なんて知らない世界に行ってしまいたかった。そうしたら、こんなにも苦しんだり躊躇ったりしないで済む。ぎょろぎょろした目で鱗を煌かせ、エラで息をして水に抱かれる。餌があれば迷わずかぶり付いて、その先に針があったら運の尽き。そんな限りなく本能に近い世界に行ってみたかった。魚籠の中でうごめく捕らわれた水棲生物がやけに羨ましかった。
「わたしは伊作くんを傷つけたくないんだ」
「生半可なやさしさを与えられては、余計に傷つきます。あなたは釣りに誘っても断らないし、僕の拙い言葉にもちゃんと耳を傾けてくれます。これで期待をするなというほうが難しいですよ」
そうなのだろう。実際、雑渡もそう思っている。期待させているし、自分も伊作を想う気持ちを上手に隠せないでいる。雑渡にしては自分の感情を吐露してしまうなど、珍しいことだった。自分の感情を操るなど実に容易いことだった。それなのに。伊作と対峙するとそんな下らない飾りなんて吹っ飛んでしまうのだ。作り事は崩されて真実だけがあらわにされてしまう。足を取られて目を逸らせなくなる。
伊作は雑渡のことを釣れないと言った。しかし、雑渡は当の昔に、伊作の針に掛かっていたのかもしれなかった。
雑渡は手のひらを見つめた。少し火傷の痕が残っている。一生消えない痕だ。今までにたくさん傷を負ってきたし、それはこれからも生きていく限り変わらないだろう。
雑渡は伊作の手を取り、自分の手のひらの上に重ねた。色も大きさも厚みも違う。同じ手なのに、自分とは全く違うものだった。このやさしい手は変わってはいけないと思った。変わらないで欲しいと思った。自分に関わってしまったことで、伊作を早死にさせるわけにはいかないのだ。
「正直に言って、伊作くんとどう接していけばいいのか、よく分からないんだ」
「それは僕の告白の返事になってません。そもそも、雑渡さんの方から僕を引っかき回してこころを根こそぎ持って行ったのに。そんな濁して逃げるなんて卑怯です」
雑渡は頷いた。
「それでもわたしは君を傷つけるのが怖い。君が傷つくのが怖い」
「僕は雑渡さんになら、どんな仕打ちをされても耐えられるのに……。あなたのためならどんな傷でも負うのに。八つ裂きにされたってかまわない……。それでも、どうしても駄目なんですか」
伊作の懇願するような目に、雑渡のこころはきゅうと縮んだ。駄目とは言えない自分は本当に卑怯だと思った。その執念深さを浅ましいと思った。傷つけたくないと言いつつ、今、まさに自分の手で傷つけているのだ。それでも。そうだとしても。
雑渡は重ねた手をそっと握った。その温かさにほっとしながら、きっぱりと言った。
「伊作くんとの距離はまだ手探りだけど、でも、伊作くんはいつだってわたしの元気の素だと思ってる。だから、君は傷ついたり変わったりしないで。そのままの君でいて」
伊作が震え出した。泣いているのだ。伊作はしゃくり上げながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「変わったりしません。だから、なるべく早く僕を捕まえて下さい。ずっと待ってます。待ってますから――」
伊作の目から次々に大粒の雫がこぼれていく。その涙の粒は誰も棲めないくらいに透きとおっていた。途端に、雑渡までもが泣きたくなった。誰かのために流された涙が、こんなにも美しいものとは知らなかったのだ。
川面に魚が飛び跳ねた。その反り返った肢体を見ながら、言葉なんて忘れてしまいたいと思った。
終わり
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