祈り 2
そろそろお昼ご飯を食べに行こうかな。静かな医務室でそんなことをぼんやり考えながら、伏木蔵は委員会の仕事をしていた。いつもならば昼休み中にふざけて、或いは自主鍛錬で怪我をした生徒で賑わう刻限の医務室である。しかし、今日は閑散としていた。閑散どころか伏木蔵ひとりだった。
今日は休日なのである。
自室で本を読んだり学園内で鍛錬に励む熱心な生徒もいるが、大半の生徒は数少ない休日を満喫するために出かけていた。故に学園内は気味が悪いくらいに静まり返っていた。
伏木蔵は保健委員長である伊作から医務室当番を頼まれたので、ここにいるのだ。本来であれば伊作の持ち回りであったのだが、どうやら課題で出かけなければならないらしい。高学年ともなると、色々とやることが多くて大変そうだ。
伏木蔵としては、休日とはいっても友人と遊ぶくらいのものだから、別に医務室詰めでも構いはしないのである。分からないことや急を要することがあれば、薬草園の手入れに行っている校医の新野先生を呼べばいい。それに伏木蔵だって、立派な保健委員である。簡単な応急処置くらいならお手の物だ。
だから、困ったような顔で伊作が医務室当番の依頼をしてきたとき、伏木蔵は二つ返事で請け負ったのである。
伏木蔵は仕事の手を休めた。目の前には横倒しにした籠がある。その籠の中身は、先日伊作と二人で摘んできた薬草だ。何種類かの薬草が混ざっているので、伏木蔵はその種分けをしていたのであった。ところが、これがなかなか上手くいかないのである。どれもこれも似たような緑にしか見えなかった。
摘むときは伊作の指示通りにやっていたから調子が良かったのだが、今伏木蔵はひとりなのである。伊作の書き残してくれた薬草の絵とその特徴が記してあるものを頼りに、なんとか半分くらいは終わったところだ。
伏木蔵と伊作では保健委員の年季が違うが、それでも、伊作の知識はすごいものだと思った。薬草を見ただけで、或いは匂いだけで、名前や効能がすらすらと口から出てくるのだから。それは絶対的に役に立つ知識だ。
伏木蔵は伊作のようになりたいと思った。尊敬して憧れた。ちょっと抜けてて不運でも、人の命を救える伊作は格好いいと思った。
以前伊作は、誰かの役に立ちたくて真剣に勉強してたら、いつの間にかこんなに膨大な知識が身についた、と言っていた。
それを聞いて、本当に真っ直ぐなのだと思った。何かにそれだけのものを懸けられるのはすごいことだと思った。
薬草の知識や医術の腕が誰かを救っているわけじゃないのだ。きっと、伊作の一途でぴんとした想いが誰かを救っているのだ。
強い想いは届く。
目に見えなくても音も匂いもなくて掴めなくても、必ず届く。
伏木蔵は立ち上がった。先ほどから腹の虫が空腹を訴えてやまない。それに今日は休日だから食堂で用意される昼食の数も少ないはずだ。あまり遅くなってから行くと、売り切れなんてこともある。スリルでエキサイティングなことは大好きだが、空腹はごめんだ。飢えはただの恐怖でしかない。死に繋がる恐怖だ。
恐怖という感情は人の神経を必要以上に過敏にさせる。
だから、「やあ」という間の抜けた声とともに背後から肩を叩かれたとき、伏木蔵は卒倒した。気が遠くなり、ふっと身体から力が抜けた。人間、本気で驚くと叫び声も出せないのだ、と感心してしまった。
「ごめん、驚かせたね。曲者だよ」
すっぽりと身体を包むようにして支えられながら伏木蔵が目を開けると、申し訳なさそうに笑っている雑渡がいた。
「こ、粉もんさん。ぼく、綺麗な川とお花畑を見ましたよ……」
「おっと、それは危ない。その世界は大人すぎるね。伏木蔵にはまだ早いかな」
雑渡はひょいと伏木蔵を抱き起こすと、膝の上に座らせた。その拍子に伏木蔵の腹が盛大な音を立てる。
「あう。胃が縮んでいるようです」
生真面目に自分の身体の状況を分析する伏木蔵に、雑渡は声を立てて笑った。
「腹が減ってるんだろ。そうだ。これあげるよ」
そう言うと、雑渡はふところから数枚のせんべいを取り出した。
「出てくるとき、部下くんからくすねて来たんだ」
「尊奈門さん?」
「そうそう。尊奈門の秘蔵せんべい」
「怒られませんか」
「大丈夫。尊奈門はしっかりしてるようで抜けてるから。きっと気づかないよ」
いやいや。いくら何でも、大事なものがなくなったら気づくと思うのだが。この人にはそんな経験ないのだろうか。そもそも大事なものなどあるのだろうか。
「食べ物の恨みは怖いですよ」
覚えておくよ、と言って、せんべいにかぶり付く伏木蔵を眺めながら、雑渡は笑った。
「ところで、伏木蔵は一人なのかい?」
一枚目のせんべいを食べ終え、とりあえずの空腹を免れた伏木蔵は頷いた。
「伊作先輩から頼まれました」
「えらいね」
大きな手に頭を撫でられ、伏木蔵は首をすくめた。
膝に座った状態で雑渡の顔を見ることは出来なかったが、伏木蔵には雑渡の落胆した表情が手に取るように分かった。
「伊作先輩なら、課題のために出かけてますよ。帰るのは遅くなると聞いています。行き違いになって残念でしたね」
「へっ? ああ、そう。いや、別にわたしは伊作くんがどうのこうの言ってるわけじゃあ……居ないなら居ないでいいんだよ。だって、ほら、伊作くんに会いに来たわけじゃないし……」
じゃあ、何しに来たんですか。目的の全てを自分で否定しちゃって。粉もんさんってば素直じゃない。
雑渡の声は誰がどう聞いても上ずっていた。明らかに動揺している。いくら、気心知れた伏木蔵が相手とはいえ、もう少し自分を隠す努力をした方がいいと思った。仮にも雑渡はタソガレドキ忍者隊の組頭なのだ。伊作という存在にこころを掻き乱され、すました余所行きの面を剥がされるだなんて、組頭命で組頭崇拝者であるタソガレドキの皆さんが知ったら泣くんじゃないだろうか。
伏木蔵は雑渡の膝から下り、そのまま向かい合った。
なおも、へどもどする雑渡が可笑しくて、伏木蔵はくすくすと笑った。
「雑渡さん。おせんべい美味しかったです。ありがとうございました」
雑渡は気を取り直すようにして膝を進めてきた。
「そうでしょ。やっぱりね。尊奈門がしきりに美味いって言ってたから。わたしは伏木蔵のそういう嬉しそうな顔が見たいんだ。だからここに来るんだ」
伏木蔵は目を丸くした。雑渡がそんな風に思っていたとは意外だった。
「粉もんさんは、ぼくが嬉しいと嬉しいんですか」
「うん」
「……じゃあ、伊作先輩が嬉しいとやっぱり嬉しいんですね」
雑渡が大きく頷いた。
「うん。そうだね。そうなんだと思う。どんなことをしたら君たちが喜んでくれるのか、結構真面目に考えてる気がする。変かな」
伏木蔵は大急ぎで首を横に振った。
雑渡が伏木蔵よりも遥かに幼い者のようなまなざしを向けてくる。疑うことなど知らない、生まれたての光のようなまなざしだ。やわらかく、そっと身体の内側から働きかけてくる何かがある。
伏木蔵は手に持ったせんべいを指の先で撫でてみた。その硬い手触りに、雑渡の目に見えないやさしさが浮かんでは消えていくような気がした。
やはり、雑渡にも大事なものはあるのだ。
それがいくつあるのかは知らないし、そもそも数の問題ではないのだろう。もちろん質の問題でもない。
大切なのは、大事なものを大事なんだと分かることだと思う。自分の中でちゃんと大事具合を理解して、確かめて、どうやって守っていくのか考えることだと思う。
この人も伊作先輩も、大事なもののために自分を懸けている。
伏木蔵の脳裏に、伊作の黙々と祈る姿がよみがえってくる。すると、途端にもどかしいような歯がゆいような心持ちになった。伊作の見えない気持ちが雑渡に届くといいと思った。
「粉もんさんと伊作先輩は同じですね」
雑渡が首をひねった。
「同じ?」
「伊作先輩も粉もんさんが嬉しいと嬉しいんです」
「そう」
伏木蔵は雑渡に近づいた。雑渡の胸の包帯に人差し指を押し当てる。
「傷、痛くないですか」
唐突に話題を転換され、雑渡がきょとんとした。が、すぐに笑顔を取り戻す。
「痛くないよ。君たちのおかげでね」
伏木蔵は首を振って訂正した。
「伊作先輩がお願いしたおかげです」
「お願い? 誰に」
「仏様に、です」
意外な返答に雑渡は驚いたようだった。
「どうして、そういうことをしてくれたのかな」
どうして。
伏木蔵は伊作の言葉を何度も頭で反芻した。
あの傷は治らない。出来ることがあるのなら何でもしたい。
どうして。
それは大事だからだ。
伊作が雑渡を大事に思っていて、力になりたい、力が欲しいと切に願っているからだ。
「伊作先輩、自分の力では粉もんさんの傷を治せないって言ってました。だからです。先日、伊作先輩と金楽寺に行ったんです。そこで、伊作先輩が真剣に粉もんさんのことを拝んでたんです。粉もんさんの傷がよくなりますようにって。伊作先輩はもうずっとそんなことを続けてるんです」
伏木蔵の話を聞き終えた雑渡の顔は、驚いているか喜んでいるのか悲しんでいるのかよく分からないものだった。全部当てはまるのかもしれないし、どれも違うのかもしれなかった。
唯一分かったことは、雑渡はとても真剣に伏木蔵の話を受けとめてくれたらしいということだ。馬鹿にしたり嘲笑ったりせず、黙って自分の腕に巻かれた包帯を見つめていた。その一巻きずつに伊作の想いが込められている。
雑渡は伊作の想いを全身で確かめるようにして目を閉じていた。やがて、ほとんど息だけでささやいた。
「嬉しい……」
それは本当にうっとりとした、まろみのある声だった。嬉しい気持ちが体中からかき集められて、ゆっくりと吐き出されたような、そんな満たされた声だった。遠い遠い、手なんか到底届かない夢に触れることが出来たなら、きっと誰もがこんな風になるに違いない。
「ご利益あったよ。伊作くんにお礼言わなきゃ……」
雑渡が笑み崩れた。伏木蔵は胸がいっぱいになった。伊作の苦しいこころが雑渡に届いたのだと思った。
相変わらず、ろ組は明るくはならない。不運も解消しないし、夕食に苦手なおかずが出ることだってある。
それでも。
伏木蔵が金楽寺を出るときにとっさにお願いしたことだけは、聞き届けてもらいたいと思った。
――どうか、お二人がいつまでも仲良くいられますように。
つづく
この記事にトラックバックする