紫陽花
早朝にもかかわらず、伊作は医務室に居た。
「部屋で薬の配合を考えてたら、留三郎にうるさいって追い出されたんだ」
仙蔵は笑った。
「伊作は一度考え出すと一晩中だって起きてるからな。留三郎は正解だったな」
ヒドイなあ、と言いつつ伊作は明かりを寄せた。空は白んでいるが、まだ日は昇っていない。薄暗い室内に紫陽花が活けてあるのがかろうじで分かるくらいだった。
「怪我?」
伊作が尋ねてきた。仙蔵は頷いた。
「昨日の夜、課題で出かけた先でちょっと手首をひねったんだ。どうせ誰もいないだろうと思って薬だけ失敬しようと目論んだのだが。まさか伊作が居るとは思わなかった」
「仙蔵、ツイてるね」
「どうだか」
「嬉しいくせにー。ああ、本当だ。けっこう腫れてるね」
いつの間にか伊作の表情は真剣そのものだった。自然と会話もなくなる。
仙蔵は触れてくるその指に心地よくなっていた。治療をしているその指は紛れも無く伊作のものなのに、今このときだけは仙蔵のものになったような気がしていた。
ほんのつかの間の所有。
でもそれでいいのだと思った。あまり贅沢になってはいけない。あまり贅沢になると、あれもこれも欲しがるようになってしまう。そして、このやさしい指さえも食い尽くしてしまうかもしれない。
だから。
こころは――いつだって大事なこころは忍ばせていなければならない。その努力が二人の輪郭をはっきりとさせるのだから。
「伊作、わたしは嬉しいよ」
「どうしたのさ、急に」
今しがた包帯を巻き終わったらしい伊作が首をかしげた。
「伊作が友だちで嬉しいよ」
伊作は「変な仙蔵」と言って自分の仕事に戻ってしまった。薬草をえり分け、帳面に何事か記している。
仙蔵は息をはいた。伊作のやさしく美しい指が目の前にある。今日も食いちぎらずに済んだのだと思うと、ほっとする反面、寂しくもあった。
誰にも言うものかと思った。誰にも明かしてなるものか。
ふと視線を上げると活けられた紫陽花が目に入った。先ほどは気づかなかったが、それは見事な藍色だった。濃く深い色が胸いっぱいに広がっていく。苦しくなった。目を閉じても重く藍の色が迫ってきた。その色はあまりにも美しすぎて、この世のたった一つの真実のように思われた。
誰にも言うものかと思った。絶対に言うものか。伊作を不幸になどしてやるものか。伊作を裏切ったりするものか。大切な人を裏切らないために嘘をつくことなど、実に容易いではないか。
仙蔵はゆっくりと目を開いた。
にじんだ視界のかたわらに、枯れることも手折られることもない友人の姿があった。
終わり
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