呼ばふ 6
日の傾きはじめた街道を走った。ただの百姓がこんなに立派に走れるものじゃないとは思うが、もう体裁など気にしていられなかった。急がなければならないのだ。急がなければ伊作がどうにかなってしまうのではないかと、そればかりが気がかりだった。
雑渡を追っていた忍者は二人いた。がしかし、どういうわけか、その二人は別々の道を行くことにしたらしいのだ。きっと、茶店前で雑渡と伊作が揉めている姿を見て、妙な勘ぐりをしたのだろう。
雑渡が伊作に密書を預けたのではないか、と。
追っ手の内、一人は雑渡の方へ。そしてもう一人は、おそらく伊作の方へ向かったと思われた。
雑渡の仕事や密書とはなんの関係もない伊作の方へ。
完全に雑渡の落ち度だった。
考えただけで押さえ込んだはずの吐き気が戻ってくる。しかし、考えねばならなかった。最優先で思考しなくてはいけない。伊作の足では、たとえ走ったとしても、そんなに遠くには行っていないはずだ。ただし、それは伊作がこの街道を通った、という前提による。もしも。もしも脇街道、あるいは脇街道からも外れた森の中を通っているとしたら。見つけ出すことなど到底困難だ。
どうか。どうか無事でいてくれ。
気持ちばかりが急いた。頭の中身だけがどんどん前に転がっていくようで、身体が追いつかない。足が重く感じた。ひょっとしなくても、焦っているのだ。
普段の雑渡からしてみれば、焦るのは珍しいことだった。大抵の不意には慣れてしまっている。自分や部下が窮地に陥っても、斬られても、道端に転がる不幸を見ても、合戦の中、血で血を洗っても。それはそれとして、受けとめてしまえるようになった自分がいる。そのことを悲しいとか寂しいとか言ってしまえば、忍者など到底務まりはしない。どんなときでも平常心を保てるのは、積み重ねてきた修行と経験の賜物であろう。
でも。
伊作のことになると、雑渡はてんで駄目なのだ。そのことは自分でも重々、自覚している。一人の忍びとしても、一人の人間としても、伊作の不意に関してだけは、平常心など吹っ飛んでしまう。危険を孕んだ場面だからこそ、より冷静でいなければいけないのに、頭に血がのぼり焦ってしまう。
だから、走っても走っても、ちっとも前へ進んでいないような錯覚に襲われる。
ああ。早く早く。なぜもっと早く走れない。
まだ、伊作の姿は見えない。
雑渡は唇を噛み締めた。後悔しているのだ。
なぜ、彼に関わってしまったのだろう。
自分と関われば、いつかはこういう目に遭わせてしまうなんて分かりきっていたじゃないか。自分の事情に巻き込んで傷つけてしまうと分かった上で、それでも伊作の傍にいることをやめられなかったのだ。
でも、もうこれきり。やめにするしかなかった。
離れることを今の今まで先延ばしにしていたくせに、自分の都合で伊作を突き飛ばして遠ざけた。恨まれても嫌われてもいいのだと覚悟して、そうした。それが、あの時雑渡に出来る最大限の伊作を守る手段だったのだ。
それなのに。どうだ。
まったく守れていないではないか。現に伊作は、身に覚えのないことを突きつけられて追われているのかもしれない。
手に入らないものばかりか、上手くいかないことばかりで頭がおかしくなる。
道の先に赤いものが、ちらちらと翻るのが見えた。茶店の旗だ。ようやっと、伊作とかち合った場所まで戻ってきたらしい。しかし今の雑渡には、団子やお茶に用事はなかった。そのまま茶店の前を通り過ぎようとしたとき、驚きを含んだような声に呼び止められた。
「雑渡さん!?」
目の端だけで声のした方を確認する。と、見覚えのある顔に雑渡の足は止まった。
「食満くん」
意外な人物に遭遇して、雑渡は目をしばたたかせた。が、それ以上に目を丸くして驚きを露にしていたのが留三郎だった。茶店に背を向け、駆け寄ってくる。
「どうしたんですか、そんなに急いで」
思わず、少年の肩を掴んでいた。激しく揺さぶる。
「伊作くんを見なかったかい?」
落ち着いたいつもの口調など忘れたかのように、早口でまくし立てた。声が上ずる。
そんな雑渡のただ事ではない様子に、留三郎はあっけにとられたようだった。それに気づいた雑渡は、痕が付きそうなほどの力で掴んでいた留三郎の肩から手をどけた。
どこか気の抜けたようだった留三郎の顔が、ようやく我に返ったものになる。そして、途方に暮れたように言った。
「伊作がどこへ行ったかなんて、こっちが訊きたいですよ」
「え」
留三郎は大仰に肩をすくめて見せた。
「実はここで伊作と待ち合わせをしていたんですけどね。俺が遅刻したもんだから、どうやら伊作のやつ、先に帰っちまったらしいんです」
「そう。じゃあ、伊作くんとは会ってないんだ」
ほんのちょっと苛立ちの色を滲ませた雑渡に、留三郎は首を傾げた。
「伊作を探しているんですか」
雑渡は頷いた。真に迫ったまなざしを留三郎に向ける。
「わたしの仕事に巻き込んでしまった。もしかしたら、わたしをつけて来た忍者に襲われてるかもしれないし、ただの杞憂かもしれない……」
留三郎が短く息を吸ったのが分かった。一瞬、目が大きく見開かれる。雑渡を責めるでもなく、嘆くでもなく、何とも言えない表情で見つめてくる。
その沈黙は存外に痛かった。詰られている気分になる。元はと言えば、自業自得なのだ。もういっそのこと、罵倒してくれとさえ思えた。
雑渡の後悔はさらに募った。思わず、押し込めていた言葉が零れた。
「わたしは……守れなかった」
「……」
留三郎は、しばらく無言だった。
こうしている間も伊作の身が案じられるのに、なぜか身体は動かなかった。守れなかったと言葉にしてみたことで、初めて自分の不甲斐なさを痛感させられたのだ。
自分は伊作にとても酷いことをした。今更、のこのこ助けに行って何になる。いっそ、この伊作の親友に行ってもらった方がいくらかマシかもしれない。
「守れなかったってことは、あいつを……伊作を守ろうとしてくれたんですね」
留三郎はふっと息を吐くと、ひとり言のようにつぶやいた。
「俺は先に学園に戻ってます。もしかしたら伊作が帰ってくるかもしれないですし。だから雑渡さんは行って下さい。伊作が困っているといけないから……」
「でも、わたしは……」
行くことが出来ない、と続けようとした雑渡に、留三郎の声が重なる。
「何を躊躇っているかは知りませんけど。でも、そんなに自惚れる必要はないんです」
「え」
「別に伊作はあなたに何も期待しちゃいないですよ。守ってもらおうだとか、好きになってもらおうだとか。あいつは、雑渡さんと一緒に居て名前を呼べるだけで嬉しいんです。雑渡さんと時間を共有できるだけで、いつも気持ちが膨れ上がって一杯なんだと、そう思います」
呆然と立ちつくす雑渡にかまわず、留三郎は続けた。
「嘘つかれても、騙されてもいいのだと、いつだったか伊作はそう言ってました。そりゃ、守ってもらったり好きになってもらったりした方がいいに決まってますよ。嘘偽りなんて無い方がいいに決まってる。そんな態度をとられたら、平気だと思っていても多分……絶対に傷つきます。伊作はあなたのことを少なからず想っているのだから……」
留三郎は掬うようにして雑渡を見上げた。雑渡の方が留三郎よりも、頭一つぶん上背がある。それなのに、雑渡は目の前の少年に、いささか気後れした。
「わたしは、すでに伊作くんを傷つけてしまったよ」
「だから行かないんですか。そんな小さなご都合主義の理由で」
今度は、留三郎は睨んできた。強い眼だった。
「……どうして伊作がこんなこと――雑渡さんに傷つけられてもいいのだと言ったのか、分かりますか」
問われ、首を横に振った。分からなかった。
留三郎は静かに言った。
「あなたがいい人だからです」
「わたしが……いい人?」
無意識のうちに復唱していた。他人からそんな風に評価されたことなど一度としてなかったため、その言葉はどこか遠い世界のものに思えた。
怪訝な顔をした雑渡に、留三郎は薄く笑った。
「伊作は雑渡さんのことをいい人だと思っています。たとえ雑渡さんに傷つけられたとしても、その傷を埋めてくれるのもまた、雑渡さんしか居ないのだと伊作は思っているんです。嘘をつかれて騙されたことが事実だとしても、真実は別のところにあるんだと……雑渡さんのこころを信じているんです。そう信じているというよりかは、疑ってないというべきでしょうか。きっと、本能みたいなもので感じてるんでしょうね」
「まさか」
「実際、雑渡さんがどういう人なのかを俺は知りません。でも俺は、雑渡さんが伊作のために必死の形相で走って来たのを見ましたし、伊作のために立ち止まって悩んでいる姿も見ました。やっぱり伊作の言うとおり、あなたはいい人です。だから――」
留三郎は硬い声を出し、真剣な面持ちで続けた。
「だから、証拠を見せてください」
「証拠……」
留三郎は深く頷いた。
「あなたがいい人だっていう証拠です。本当に、心の底から伊作のことが大事だって言うのなら、真実、いい人であることを伊作に示してやってください。今、伊作は大切なものを失いかけて、とても弱っていると思います。自分のことも雑渡さんのことも見えなくて、何が本当で何が嘘か分からなくて動けないでいるかもしれません。暗闇は怖いですから」
「そう……」
雑渡が短く応えると、留三郎は初めて、少年らしい笑顔を向けた。
「雑渡さんがどこで何をしていても構いません。だけど、伊作の前だけではいい人で居て下さい。……伊作はあなたと話がしたいんですよ。自分の言葉で自分の声で、あなたに伝えたいことが山ほどあるに違いないんです……」
「うん。そうだね。わたしも伊作くんに謝りたい」
雑渡は踵を反した。また走り出す。この時期、西日が傾いてしまえば、暗くなるまで間もない。やはり焦ってはいた。しかし、先ほどまではなかった冷静さが、雑渡の全てを支えていた。
伊作は雑渡を、いい人だと、そう言った。
嬉しかった。だから、その言葉を本物にしたいと思った。
やっぱり伊作のことがどうにも忘れられない。だから、ちゃんと、こころを込めて好きになりたかった。ちゃんと、名前を呼びたかった。
伊作が疑わずにいてくれた雑渡のこころを、証明したいと思った。
つづく
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