天上の花 その2
「雨が降るかもしれません」
曇り空を眺めながら伊作は言った。灰色の雲は厚く、流れも速く感じられた。伊作の視線につられるようにして、隣を歩いていた雑渡が空を見上げた。
「本当だ。日が暮れる前に降り出すかもね。ここで別れようか」
途中まで送ろうと同行していた伊作に雑渡は言った。伊作は残念に思った。もう少し一緒にいたいような気もしたが、雑渡の気遣いを無駄にはできなかった。実際、忍術学園を出たときよりも風が強くなっている。森の木々が騒がしいくらいにざわついている。天候が崩れるのも時間の問題だった。
伊作はしぶしぶ頷いた。そんな伊作の様子を見て、雑渡は笑った。
「また寄るよ」
大きな手が伊作の頭を撫でた。自分でも本当に単純だと思うのだが、それだけで顔がにやけてしまう。確実な約束とまではいかないけれど、それでも雑渡が伊作に会いに来るかもしれないという希望が持てただけで十分だった。そんな些細なことが、伊作にとってはとても重要だったのだ。変に期待するのはよくない。けれど、死に近い場所で仕事をする雑渡にはいつ何時会えなくなるか分からないのだ。だからどんなに小さくても少なくても一瞬でも、二人で共有できる時間があるのならそれを大切にしたかった。わがままや贅沢は言わない。いつでも笑顔でいようと、雑渡と本気で向かい合う覚悟が出来たときに決めたのだ。
だから、伊作は笑った。
「お元気で。身体、大事にして下さいね」
「うん。伊作くんもね」
つと、雑渡の手が伸びてきた。しなやかな指が伊作の頬に触れる。促されるようにして、伊作は顎を反らした。静かに目を閉じる。くちびるの端にやわらかいものが触れた。やさしくついばむ様にして離れていく。すると次の瞬間、腕を引かれた。目の前に雑渡の鎖骨が見えて、ああ、抱きしめられたのだと思った。伊作はつま先立ちになり、男の首に腕を回した。重心が崩れ、そのまま草むらに倒れ込む。どちらも無言だった。ただ、身体だけが熱いように感じられた。耳に聞こえてくる脈の音は、もうどちらのそれか分からなかった。
ふいに、風に倒された草むらの向こうに赤いものが見えた気がした。伊作は身を起こして視線を投げた。彼岸花の群れだった。その圧倒的な花群れに息をのんだ。
「いつの間に咲いたんでしょう。ここへはよく薬草を採りに来るのに気が付きませんでした」
誘われるようにして歩き出した伊作を雑渡はゆっくりと追ってきた。
「すごいね。真っ赤っか」
風が吹きぬけて、赤い絨毯を激しく揺らした。それを見つめていると、伊作のこころもざわついてきた。後ろに立った雑渡を振り返らずに言った。
「雑渡さんと初めて会ったときみたいですね」
「死人花なんて咲いてたっけ」
その声の調子から、姿は見ずとも首をひねっている様子が伝わってきた。伊作は首を振った。
「いえ。違うんですけど。でも、そう、あそこは合戦場だったから、たくさん血を見ました。ちょうどこんな感じで、どこを見ても赤かったんです。雑渡さんも赤かったです……」
「そう……。そうだったかもしれないね」
会話が途切れた。もっと気の利いたことを言えればいいのに。沈黙に圧されてこころばかりが急く。何も言えなくなったのは、彼岸花に胸のうちを暴かれたような気がしたからだ。
本当はずっと不安だったのだ。希望が持てるだけで十分なんて嘘だ。もう、ずっと不安の中を彷徨っているのだ。
――雑渡さんが死んじゃったらどうしよう。
頭の隅の隅の隅では、そんなことをずっと考えていたように思う。考えないようにしても、ふとした折に突きつけられてしまう。結局、わがままや贅沢を口にしないのも、ただの強がりなのだ。でもその強がりがなければ到底やっていけない。それが伊作に与えられた現実だった。
雑渡と出会ってから、季節は確実に移り変わっていた。夏から秋へ。風の匂いも空の色も、何もかもが刻々と変化している。それは本当にどうしようもないことで、当たり前のことで、誰にも止められないことなのだ。時間が止まるなんてことはあり得ない。死にでもしない限りは。すべては、生きているからこその時間の経過なのだ。しかし、雑渡と伊作にとって、互いに与えられた時間がどのように過ぎていったのかは皆目見当もつかないことだった。だから伊作は不安に駆られる。もしかしたら雑渡は、伊作と初めて出会った状況さながらの場面にいたかもしれない。この彼岸花みたいに真っ赤な血を流し、もだえ、その命を遂げようとしていたかもしれない。
無論、このことは伊作の想像に過ぎない。けれど、何だか足元が地に沈み込んでいくような不安に襲われた。寒くはないのに背筋に悪寒が走った。無理やり笑おうとしたけれど、やはり上手くいかなかった。
雑渡は伊作の隣に並んだ。膝を地に付けて屈み込む。抑えた声で囁くように言った。
「この火傷を負ったとき――」
雑渡は両腕をさすった。
「わたしは火の海の中にいた。ちょうど今みたいに目の前が真っ赤だったよ。死ぬかなと思った。でも死んでもその炎の中で成さなきゃいけないことがあったから……あのときは本当に必死だった。熱いとか怖いとか一切感じなかったんだ」
伊作は頷いた。雑渡が自分の過去について話してくれたのは初めてだった。だから伊作は黙って雑渡の横顔を見ていた。伏し目がちになって話すその横顔を、本当に美しいと思った。
「でもしばらく経って、自分が生きてるのも不思議なくらいの火傷をしているのに気づいて。ちゃんと動けるようになって、火傷したことなんて忘れたはずなのに、思い出しちゃうんだよね。傷が疼いて足が竦んで……恥ずかしい話だけど、火を見るとちょっと怖くなる」
「恥ずかしくなんかないですよっ」
伊作は自嘲気味に笑う雑渡にまくし立てた。
季節がどれだけ移ろっても、拭いきれない恐怖がある。雑渡は、もうずっと長いこと独りで耐えていたのだ。それはどれだけ途方もないことなのだろう。
「僕は雑渡さんの身体を見たとき思ったんです。痛かったろうな、怖かったろうなって。よく頑張ったねって……そう思いましたもん。雑渡さんは立派です。その恐怖は雑渡さんが立派だった証です。だから、いいんですよ。恥ずかしくなんかないですよ。むしろ恥ずかしいのは僕の方です」
伊作は両手を握り込んだ。爪が手のひらに食い込む。ぎゅっと閉じた目から滴が落ちた。赤い花弁の上で弾ける。
「そうやって雑渡さんは頑張ってるのに、僕ばかりが不安の中にいるんだと思ってました。雑渡さんの心中を知ろうともしませんでした。雑渡さんの苦しみや悲しみを分かろうとする機会も持たず、僕はそういう雑渡さんの過去を作ってきたことに対して、まったくの無関係であろうとしていたんです。ぬくぬくした安全な場所で、雑渡さんが死ぬかもしれないとか、ありもしないただの想像に恐れを抱いていた僕は本当に愚かです。こんなにも愚かでなければ、もっとあなたを抱きしめられたのに――」
「怖い思いさせてたんだね。ごめんね」
立ち上がり、雑渡が言った。伊作はその顔を見ることが出来ずに黙っていた。ただ風だけが吹いていた。涙の筋が冷やされていく。
彼岸花がしきりに揺れていた。救いを求めるようにして虚空に緋色の指がひしめく。この赤い指は雑渡のものだろうか、それとも自分のものだろうか。伊作は自分の指を見つめた。この二本しかない腕で、十本しかない指で、雑渡さんを支えられるだろうか。救えるだろうか。雑渡さんはほんの一部分ではあったけれど、自らの過去を語ってくれた。そのほんの一部分の負荷を丁寧に癒し包み込むことが出来るだろうか。
雑渡が手を絡めてきた。
「わたしもこの死人花の一つだったんだよね。伊作くんに救いを求めて、そして助けられた。初めて出会ったあの時から、もうずっと君に支えられてる。伊作くんは決して愚かなんかじゃないよ。怖いことがあっても色んなことに負けそうになっても、伊作くんがいるから大丈夫って思えるんだ。だから、ありがとう。わたしの傍にいてくれて本当にありがとう」
雑渡は伊作の両手を包み込むようにして持ち上げ、そっとくちびるを落とした。
伊作は笑った。礼を言われて嬉しかったからじゃない。また一つ、雑渡に対する覚悟が増えたからだ。
――どんなことがあっても、どんなに長い時間を費やしても、雑渡さんを見届ける。
伊作は雑渡といるとどんどん強くなれた。覚悟をするということは、きっと勇敢になることなのだろう。雑渡のためなら、どんなことも出来ると思った。
伊作は雑渡に手を握られたまま、ぴしっと背筋を伸ばした。
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