天上の花 その3
陣内左衛門は出て行く機会を完全に失っていた。断言しておくが、盗み聞きをしようなどという考えは微塵もなかった。聞こえてきてしまったのだ。声を掛けるのも何となく躊躇われた。二人の邪魔をするほど野暮じゃない。第一、そんなことをしようものなら後々、雑渡に何をされるか分かったもんじゃない。避けられる危険は避けるべきである。
背中を木に預けながら、陣内左衛門は息をついた。隠れて耳をそばだてているという現状に多少の居心地の悪さも覚えつつ、それでも陣内左衛門の心中は穏やかだった。雑渡と伊作の会話に耳を傾けるうち、迫ってくるような息苦しい恐怖は消えていた。それは、善法寺伊作という人物の言葉を直接、自分の耳で確かめたからかもしれなかった。幼い言い回しの端々に、伊作の真心が敷き詰められているような気がした。
――彼は組頭に対して、必死に寄り添おうとしてくれている。
そんな風に思ったのだ。そのことは、陣内左衛門のこころをほぐし温めた。
二人の不器用なくらい拙いやり取りに、陣内左衛門は勘違いをしていたことに気づいた。
――組頭は乗り越えてなんかいなかった。でも今、乗り越えようとしている。善法寺伊作と共に……。
そんなことを思っていたら声を掛けられた。
「陣左。盗み聞きはよくないよ」
……さーすが組頭。ばれてたのね。
後が怖いぞ、と思いながら、陣内左衛門は潔く姿を現した。いくらも離れていない場所に二人はいた。彼岸花の赤い川を挟んでこちらを見ている。
「お迎えに上がりました」
陣内左衛門が用件だけ言うと、雑渡は浅く頷いた。その隣では伊作が真っ赤になっている。きっと陣内左衛門にすべてを聞かれていたことが恥ずかしかったのだろう。もっともだと思う。陣内左衛門は、かわいそうなくらい羞恥に染まった伊作に、こころの中で謝った。
伊作に手短な別れを告げ、雑渡がこちらに向かってきた。泣くんじゃなかろうかと思って、陣内左衛門は伊作の方をじっと見ていた。
「睨むなよ」
薄く笑いながら言う雑渡に、陣内左衛門は抗議した。
「睨んでません。元々、目つきが悪いんです」
すっと静かに雑渡の肩が並ぶ。結局、伊作は泣かなかった。それどころか、満面の笑みを浮かべていたのだ。意外だった。もっと見た目みたいに女々しい――といったら失礼か。もっと脆弱な生き物なんだと思っていた。だから驚いたのだ。尊奈門が伊作を手強いと称したことが、今になってようやく腑に落ちた気がした。確かに、別れの一つひとつが今生限りになるかもしれないのに、それでも笑顔で送り出せるその伊作のこころは頑強なものに思えた。
けれど、雑渡に向けられた伊作の笑顔は、ただ優しいだけではないように思えた。言えなかった言葉も少なからずあったのだろう。伝えられもせず、でも呑み込むことも出来なかった感情が、その痩身で渦巻いているように感じられた。だから、嬉しさも楽しさも悲しさも寂しさも満遍なく内包したような、いびつで静謐で透明な笑顔がそこにあるように感じたのだ。
そんな風にはとても笑えない。陣内左衛門はそんなことを思った。だから、笑っている伊作を見て、強いんだな、と感心した。
「いいんですか。あんな簡単な別れ方で」
雑渡は笑った。
「いいんだよ。また会うんだから」
雑渡の明確な意思に殴られたような気分になった。本当だったら「約束なんてするもんじゃありません」と諌めるべきなんだろうが。とうとう、陣内左衛門は何も言えなかった。朗らかに笑う雑渡の顔が、本当に幸せそうだったからだ。
ふと、昔、雑渡に言われたことを思い出した。彼岸花の別名は死人花。死者に、或いは死に近いものに寄り添って咲く花。けれどあのとき、雑渡はこうも言っていなかっただろうか。
「でもね、そんな不吉な名前ばっかりじゃなくて、曼珠沙華とも言うんだ。天上の花、仏様の傍に咲く有り難い花だね」
陣内左衛門は再び、伊作に視線を投げた。その僅かな時間。二呼吸くらいの時間だ。その一瞬ともとれる間に、陣内左衛門は初めて伊作と真正面から向かい合った。検分するような陣内左衛門の視線に、伊作が射すくめられたように身を固めたのが分かった。寂しい森の焔の中で、伊作だけが切り取られたように見えた。凛として、陣内左衛門をまっすぐに見つめてくる。
きっと、伊作も雑渡も強がりながら生きていく。それがどういう世界なのか、陣内左衛門にはとても想像できなかった。きっと、伊作と雑渡しか知り得ない世界だ。そんな風に、誰かを恃みながら生きていけたらどんなに幸せだろうかと思った。自分にはとてもそんな力はない。誰かを痛烈に想うあまり、狂ってしまうような強がりは、自分の中にはまだ、ない。でもその強がりの中から生まれた相手を思いやるこころは、たくさんの困難を乗り越えていく力になるのだろう。
天上の花。
もしかしたら雑渡は、伊作の中にそれを見つけたのかもしれない。陣内左衛門は雑渡と伊作の出会いに感謝した。これから二人が歩いていく道がどんなものなのか分からない。けれど、陣内左衛門は知っていた。伊作と向かい合う雑渡は、とても人間らしく、そして美しいのだ。
振り返ればもうすでに雑渡は帰路を歩んでいた。伊作に軽く頭を下げ、陣内左衛門も雑渡に続いた。目の端を赤い色が掠めていく。それらをなるべく踏まないように慎重に歩いた。
終わり
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