寂しい贈り物
ひらめきは大事であると思う。どんな知識もどんな研究も、ひとつのひらめきに敵わないことがある。突発的な考えが時にいい方向へ物事を運ぶことも十分あり得るのだ。斬新かつ新鮮な思いつき。頭の中に突如として現れる閃光。
ただし、だ。
なるべくならそのひらめきは、他人に迷惑をかけないものであって欲しい。そう切に願う。願わずにはいられない。何しろ自分は人一倍、不運な体質なのだ。運が無いのか運に見放されてるのかは知らない。けれど、普通の人で迷惑程度なら、伊作の場合は大を十個くらい連ねた大迷惑となるに違いないのだから。他人に迷惑をかけないのなら、どんな言動も思いつきも咎めはしないのに。
――学園長先生の突然の思いつきは、結局のところ、多大なる迷惑を撒き散らすから良くないんだよなあ。
つい先ほどまで忍術学園全生徒が強制参加させられていた、混合ダブルスサバイバルオリエンテーリングのことである。不運の神に愛された伊作が、予想通りの不運な目に遭ったことは言うまでもない。
伊作は灯心に火を付けた。薄暗い部屋に寝巻き姿がぼんやりと浮かび上がる。風呂上りでまだ乾ききっていない髪を無造作に結う。毛先からポタポタ落ちる滴が床にいくつかの円を描いた。床に座り鏡を立てると、左頬のかすり傷がはっきりと見えた。寝巻きの襟元を大きく広げれば、左肩に擦りむいた傷も赤く見える。いずれも、オリエンテーリングの最中に負った傷である。ひりひりする傷口が、お前は究極の不運だと囁いているような気がして、伊作は大きくため息をついた。もしこの場に留三郎が居たら、やれ幸せが逃るだの、やれ運が逃げるだのとまくし立てる姿が見られただろう。いつも前向きに物事を考えている彼のことである。きっとため息なんて存在すら良しとしないのかもしれない。いつだったかも、過ぎたことはしょうがないのだから、良い事や幸せな事を考えろと言い含められた。伊作だって、根は暗い方ではないし、むしろ楽天的ですらある。けれど、やっぱり、これだけ運が無いことが続くと多少落ち込みもする。今こそ、留三郎に窘めて欲しかった。しかし、伊作は部屋に一人だった。留三郎は例の夜鍛錬に出かけている。同室のよしみで遠慮なく言ってしまうが、本当に気が知れない。伊作なんてへろへろで風呂に入るのもやっとの有様だったのに、留三郎のどこにそんな体力が残っているのだろう。一度じっくり、身体検査をしてみたいものだ。
そんな精魂がほぼ尽き果てた伊作がいる部屋を雑渡が訪れたのは、その夜の内だった。どうやら、伊作に怪我をさせたことを詫びに来たつもりであったらしい。どうやら、とか、らしい、という曖昧な表現しか出来ないのは、雑渡が黙り込んでいるからである。
天井裏から音もなく降り立った黒装束は、口をぱくぱく目を白黒させつつ心臓を縮み上がらせた伊作のまん前に陣取った。そして、あわあわしている伊作には構いもせず、頬に触れてきたのだ。
「ごめん」
そう力なく言うと、雑渡は俯いてしまった。暗い部屋の中で見た雑渡の顔は歪んでいた。伊作はそのことを心底憐れんだ。
実は、伊作の左頬のかすり傷は雑渡のせいで負ってしまったものなのだ。雑渡が伏木蔵を振り回して遊んでいた際、伏木蔵の足が伊作の頬に当たったのだ。とはいっても、別段、伊作は気にしていない。怪我をするのはいつものことだし、伊作が避ければよかっただけなのだ。怪我をした原因は伊作のドンくささにもあるに違いない。
「あの……。別にこの怪我は雑渡さんのせいでもなんでもなくて、だから、雑渡さんが謝る必要は無いと思うのですが」
雑渡との付き合いはそれほど長くない。はっきり言って短い。それでも、一緒に過ごす時間が増えるたび、伊作は雑渡の人となりをつかみかけていた。雑渡は、伊作に関することになると途端にこころのふり幅が激しくなってしまうらしい。そのことが伊作は、嬉しくて楽しくて、しかしそれ以上に、憐れだと思った。伊作なんかのために苦しむなんて、本当に憐れとしか言いようがない気がした。その憐れを誘う姿は、伊作を苦しめる。苦しめたくはないし、苦しみたくもなかった。
「雑渡さん。顔を上げて……」
黙り込んで下を向くばかりの雑渡に、きまずい気持ちになって伊作は呼びかけた。呼びかけながら思った。
何で、こんな夜中に突然訪ねて来た非常識極まる大の大人に気を使わなくちゃいけないんだ。もう、大体、ダンマリとか流行んないし。まあ、雑渡さんって乙女な部分あるしなあ。仕方ないか。
肌蹴たままだった前を静かに合わせながら伊作は男を見つめた。そうこうしている内に、きまずいどころか可笑しくなってきた。伊作みたいな子ども相手に本気で悪かった、と思ってくれる雑渡が可笑しくて、それ以上に嬉しかった。
「雑渡さんは、あれからずっと僕のことを考えて案じていて下さったんですね」
僅かに、雑渡が頷いた気がした。伊作は笑った。
「そして、僕とのことにこうして時間を割いて下さってるんですね」
「その怪我はわたしの不注意だし、それに。ああ、君は怒るかもしれないけれど、詫びを入れに来たなんてただの口実で、昼間は伊作くんと話す時間がなかったから」
そんなことを照れながら言う雑渡は、本当に可愛らしい生き物だった。伊作にとっての良い事や幸せな事は雑渡だと思った。たくさんの不運も雑渡に関することを思い浮かべれば、きっと吹っ飛んでしまうだろう。そうに違いない。
「愛の力は偉大です」
「そりゃ、このほしを救うらしいからね」
「いえ。雑渡さんのことを四六時中考えていたいっていう話ですよ」
「若さって大胆」
「そうですね。若さは不敵で無敵です。実を言うとですね。この頬の傷も雑渡さんに付けられたんだって思うと、嬉しいものなんですよ。すぐ治っちゃいそうなのが残念ですけど」
頬をつっつく伊作に、雑渡はおののいた。
「だめだめ、そんなの。その内、わたしに君を殺せとか言うんじゃないでしょうね」
「そんな物騒なこと、言いませんよ。お願いするとしたら、ちょっと斬って下さいとかその程度じゃないですか」
雑渡は耳を塞ぎながら、イタイイタイと言って震えた。ちょっとツボかも。
にやつく伊作に、雑渡がものすごい剣幕でにじりよってきた。肩を揺さぶってくる。
「わたし、絶対にそんなことはしないからね。いくら大好きな伊作くんの頼みだからって、伊作くんにそんな乱暴なことしないからね。もうっ、かすり傷負わせたくらいでこんなに苦しいのに」
「大好きって、どさくさに紛れて……」
「ぎくっ。まあ、それは置いといて。とにかく、伊作くんは一人なんだよ。この世にたった一人なんだ。伊作くんの代わりなんていないんだよ。誰も君の代わりにはなれない。なっちゃいけない。だから、ね」
だから、か。
だから、伊作を壊れ物のように扱うのか。だから、伊作を一人の人間として扱うのか。
どこかぼんやりと雑渡を見つめていた。すると、雑渡はますます伊作に詰め寄ってきた。伊作が了承したと頷かなければ、朝まででもくどくど説教してやるという目で迫ってくる。
伊作が浅く頷くと、黒装束の肩が大きく上下した。あからさまに安堵したらしい様子が伝わってくる。
伊作は曖昧に笑うことしか出来なかった。
この世にたった一人、誰も代わりにはなれない、という言葉は雑渡にこそふさわしいと思えてならなかった。毎日命を削り、翻るほど死に近づく生業を背負う雑渡にこそふさわしい。結局、他人のことばかりで自分のことがおざなりになるのがこの男なのだ。だからこそ、伊作は考えようと思う。雑渡のことを。恥ずかしげも無く、伊作のことを大好きだと言ってくれる雑渡のことを。
「雑渡さんも雑渡さんだけです」
雑渡は面食らったように口を開けた。肩に置かれた手が少しだけ浮く。
「君は、わたしを喜ばせることにかけては類稀な才能を持っている。わたしは、伊作くんの言葉の一つひとつがとても嬉しい」
雑渡は伊作を見つめていた。伊作は雑渡の目を見ることができなかった。伊作の言った言葉の意味を、きっと雑渡は分かっていないと思った。
翌日、寝巻き姿の伊作が部屋の戸を開けると、内側に倒れ込んでくるものがあった。腰を屈め、足先に当たるそれを拾い上げる。
「人形?」
黒い塊をひっくり返してみて、吹きだした。それは雑渡を模した人形だったのだ。
「な、何コレ……」
こんなもの作ってるなんて、タソガレドキ忍者隊ってやっぱイタイ忍者の集団なんじゃ。だって、人形だよ。ありえないし。魔よけとかになるかなあ。
そんなことを考えてひとりきり笑った。しばらくして、大きく息を吸い込んだ。
どんな意図で雑渡がこの人形を置いていったのかは知らないけれど、やはり伊作の言葉の意味を理解していなかったのだと思った。
つまるところ、人形とは身代わりなのだ。
伊作に向かって代わりはないと散々訴えた雑渡が、自分の姿を模した人形を贈ってくれた。あまり会うことが出来ない自分の代わりに、ということなのだろう。その雑渡なりの思いつきは伊作のために違いないのだ。誰にも迷惑をかけない、むしろ善意の思いつきだ。
そうに違いないのに。
その気持ちは嬉しいのに。
けれど。
どうしてだろう、素直に喜べない。
毎日人形と顔をあわせるよりも、一瞬でも本物に逢える方がいいだなんて。
生身のあの人に触れることの方がいいだなんて。
伊作は人形を胸に抱いてみた。朝の空気に晒されていたせいか人形は冷たかった。抱けば抱くほど、寂しくなっていく気がした。憐れなのは他でもない、伊作だった。
終わり
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