月夜
「月見がしたい」
保健委員会の会議でそう言い出した下級生に、伊作は気軽に応じた。今夜は晴れる。明るい夜になるだろう。嬉しい反面、どうしてか寂しかった。
伊作の予想した通り、夜空は明るかった。ひとかけらの雲もない。これぞ中秋の名月、とばかりにぽっかりと満月が浮かんでいる。医務室前の縁側に、ススキや団子を並べ、あれやこれやと話に花を咲かせた。所詮、花より団子だ。
「こんな夜に忍び込んだらすぐに分かっちゃいますよね」
伏木蔵がそう言うと、乱太郎と左近が頷いた。確かに、その通りだと思った。忍者は月明かりだけでなく、星の明かりさえも嫌うものだ。だから、こんなに明るい夜に忍び込もうなんて、殆ど酔狂としかいいようがないのだ。
それなのに。
伊作は伏木蔵の意見に頷けなかった。頷けなかったどころか、ぎくりとした。その酔狂な人物を知っているからだ。その常識外れ、奇想天外予想外の人物はどうもこの屋根の上に陣取っているものらしい。実は、そのことにはかなり前から気づいていた。嬉しい気持ちと呆れる気持ちの狭間で、緩みそうになる顔を必死で隠した。
楽しげに話す下級生が、屋根の上の人物に気づいた気配はない。ただ一人、三年生の数馬だけがそわそわしていた。
夜が更けてきた頃、数馬がちらちら上を気にしながら言った。
「そろそろお開きにしませんか」
数馬の提案に、下級生は口を尖らせた。普段は温厚な数馬には珍しく、ぴしりと言った。
「明日も授業はあるんだし、それにその……」
言葉尻をにごらせ、数馬はまた屋根の上に目をやった。
「とにかくっ。夜更かしは身体によくない。保健委員のくせに自己管理も出来ないのかと思われたら面目丸つぶれだろ」
押し切るように言うと、数馬は下級生を追い立てるようにして立ち上がった。空になった器や花瓶を下級生たちに手分けして持たせると、そそくさとその場から去ろうとする。伊作はその背中に声をかけた。
「数馬」
数馬は下級生を先に行かせると、こちらに振り返った。
「数馬、あの、気づいてたの?」
屋根の上の人物についてである。
おっとりしているけれど、しっかり者の三年生は頷いた。
「お月見、楽しかったです。でも伊作先輩はちょっとだけ寂しそうでしたね」
「そうかな」
「はい。だから、伊作先輩も楽しんで下さい。楽しいことや嬉しいことは……それだけじゃなくて、苦しいことも辛いことも何でも、好きな人と分け合わないと」
失礼します、と踵を返した数馬の背中が廊下の角を折れていった。しばしの間、伊作はぽかんとした。屋根の上で人の動く気配がして、弾かれたように我に返った。
顔が熱い。数馬の気遣いに嬉しいやら恥ずかしいやら複雑な心境になった。
「ええっと、ありがと数馬」
数馬のはにかむような笑顔を思い出しながら、誰も居なくなった縁側で一人呟いた。
雑渡は屋根の上にいた。他でもない忍術学園医務室の屋根の上だ。明るすぎる月夜が自身の姿をはっきりと浮かび上がらせている。確かに今日も自分は存在しているのだと思い知らされる。
忍務の帰り道、突然、伊作に会いたいと思ったのだ。
本来ならば明るい夜に忍務は避けるべきなのだが、今日は特別だった。
急な忍務をいいつけられ、息をするように苦も無くこなした。それもそのばず。大した忍務内容ではなかったからだ。にもかかわらず、なぜか疲れていた。歩くのも億劫だった。それでも自分のつま先だけ見て、黙々と歩いた。そのとき、いつもより影が濃いことに気づいたのだ。ふと見上げた夜空には見事な丸い月が浮かんでいた。その闇を支えるような光の輪に体中がぼんやりした。やわらかな色をした満月に想い人の姿が重なった。
会いたいな。
素直にそう思ったのだ。やさしい、やさしいあの子に会いたい。臆面もなく堂々と思った。月明かりに酔ったのかもしれなかった。
自分はいまだに酔っているのかもしれない。
そんなことを思いながら、屋根の上で子どもたちの他愛もない会話に耳を傾けていた。別に好きこのんで涼しい屋根の上に一人ぼっちなわけではない。子どもたちがあまりにも楽しそうにしていたから、出るに出れなくなったのだ。子どもたちのささやかな楽しみに水を差すわけにはいかない。これでも空気は読める大人なのだ。そうはいっても、雑渡は伊作に会いに来たわけであって、屋根の上で指をくわえて思いを馳せるためにここにいるわけじゃない。だから、自然とふしだらな念みたいなものがだだ漏れになっていたのだろう。あの、数馬という少年には気づかれていたようだった。当然、伊作も気づいているはずだろう。気づかれていなかったらそれはそれで悲しいものがある。
「いつまでそうやってるつもりですか」
物思いにふけっていたら、闇を割るようにして下方から声を掛けられた。伊作だった。
「あの子、鋭いね」
逆さまになって軒先から縁側を覗く。と、伊作はウンザリした顔で額に手をあてていた。
「あのねえ、雑渡さん」
そういう声も、若干呆れがちだ。
「あれだけ気配丸出しで、気づくなって言う方がおかしいですよ」
軒先を軸に回転し、ひらりと伊作の隣に降り立った。
「わざとだよ」
「知ってます」
頭巾を解いて舌を出す雑渡に、伊作はそっぽを向いた。
雑渡はたじろいだ。突然立ち寄って嫌がられたり怒られたりするのはいつものことだが、今日はいつにも増して伊作の機嫌が悪いような気がする。
雑渡は縁側に座りながら、
「え、何。もしかして伊作くん、怒ってる?」
窺うように伊作を見れば、ぎろりと睨みつけられた。
「今日はいらっしゃらないと思ってました」
「何で」
「月夜で明るいからです」
「ああ」
頭上を見ると、相変わらず、そこにはぽってりとした月があった。暢気な態度の雑渡に、伊作はわなわなと震えた。
「ああ、じゃないですよ。何を考えてるんですか」
「え。何って……伊作くんに会いたいなと思って――」
「ああもうっ。こんなに明るい夜なのに、誰かに見つかったらどうするつもりですか」
そこまで言われて、雑渡はしゅんとした。自分の思いに忠実になりすぎて、随分大人気ないことをしていると気づいたのだ。いい大人なのに。
「ごめん。自分のことばっかりで、伊作くんの迷惑とか考えてなかった。敵か味方かも分からない忍者と会ってるなって露見したら、伊作くんの立場ないよね……」
「そうじゃなくて」
意外な反応を示されて、雑渡は目を瞠った。伊作はすがるようにして、雑渡の腕をつかんだ。その目がとても真剣で、視界が狭くなった。
「そうじゃなくて。雑渡さんがどうにかなってしまったら嫌なんです」
「え」
「僕のことなんてどうでもいいんです。僕の立場なんてあなたが気に掛ける必要はないんです。気に掛けなきゃいけないのはあなたの立場でしょう。あなたは色んなものを背負っている。たくさんの責任がある。そういう立場の人間ですよ。僕は、僕のせいで雑渡さんが罰せられたり疑われたりするのが嫌なんです」
「伊作くん……」
「だってそうでしょう。雑渡さんは何も悪いことしてないし、あ、でも部外者が勝手に学園に入ってきちゃ駄目なんですっけ。ってまあそれはよしとして」
「いいんだ」
「悪いことをしてない人が悪く思われるのは嫌なんです。僕たちはただ、会いたいだけなのに」
必死に訴える伊作を見ながら、彼も酔っているのだと思った。この煌々と照るさみしい月がいけない。明るいものはいつだって二人を隔てるのだ。うしろめたいことがあるわけではない。けれど今は、いや、この先も。伊作と二人、陽の下で堂々と出来ることなんてないのだと思う。後悔はしていない。元々自分はそういう世界の住人なのだ。しかし、それでも。そういうほの暗い世界に、この太陽みたいな人を引きずり込んでしまったのは、他でもない。雑渡自身なのだ。
時々、そのことを申し訳なく思ってしまう。でもそんな感情は伊作に対して失礼なのは明白だ。善法寺伊作という人間は聡い。色々なことを分かった上で、雑渡と話をしているのだ。自分の領域に招き入れ、感情をぶつけてくるのだ。決して、考えなしで行動しているわけじゃない。けれど、それが褒められた行為かといえば違うのだろう。あの数馬という少年の反応が珍しいのだ。大多数の人間は多分、彼のように雑渡の存在を認めてはくれない。それでも伊作は、あからさまな批判やぶしつけな奇異の目にも耐えているんだろう。
どこかぼんやりと伊作を見つめていたら、重々しく呼びかけられた。
「雑渡さん。大丈夫ですか」
黙り込んだまま反応がなかったことを心配したのだろう。伊作が軽く肩を揺すってきた。月の光が幾分か伊作の髪を明るく見せている。きれいだな、と思った。こんなにきれいなものを自分の我がままで、どうにもならない世界に引きずり込んでしまった。夢中どころか暗中だ。一寸どころかこの身自体が闇なのだ。ああ、やはりこの人に近づいてはいけなかった。
あふれ出てくる感情を、言わなくてもいい言葉を、抑えることが出来なかった。
「わたしは、悪い人だよ」
唐突な言葉に、伊作は首を傾げた。
「何ですって」
雑渡は深く息を吸った。腕を掴んでいる伊作の指を丁寧にほどいた。
「さっき、忍務で人を手にかけた。いつものことだけど……ね」
一瞬、伊作の呼吸が止まったのが分かった。開きかけた口が、堅く閉じられる。掴むものを失った伊作の手は、だらしなく縁側板の上に転がった。
「……人を」
「そう。わたしと出会うまでは確実に生きていた人だった。でもわたしが居たから死んだ」
「お仕事でしょう。雑渡さんがやらなきゃ、他の人がやってました。そうでしょう」
その通りだった。雑渡は浅く頷いた。
「人を死なせたのに、わたしは伊作くんに会いたくて堪らなくなったんだ。君に会うまではこんなに弱くなかったのに」
突き放されると思った。思ったけれど声に出した。言わなかったら、身の内で渦巻く感情に飲み込まれて、泣いてしまうと思ったのだ。泣きたくはなかった。恥ずかしいからじゃない。泣いたらすべて許されてしまうような気がしたからだ。寛容に、仕方が無かったじゃないか、と。自分を正当化するために泣くみたいで嫌だった。人を殺めた。それはまさしく真実なのだ。自分の生きる世界に言い訳などしてはいけない。
それなのに。
伊作はそっと手を絡めてきた。
「冷たい手……怖かったんですね。」
そう言うと、雑渡の両手を包み込むようにして握った。
「雑渡さんは自分にとても厳しいんですね。でも厳しいばかりでは、雑渡さんが壊れてしまいそうで僕は怖いです。怖いのにこんな風にして手を温めることぐらいしか出来ない。壊れないでと祈ることしか出来ない。それが歯がゆいです。雑渡さんの向かい合っている世界からつま弾きになっている気がしてなりません。その辛さから逃げたいけれど、でも逃げません。絶対に。雑渡さんの手が冷たくても、雑渡さんの目が悲しそうでも、僕はあなたの傍に居ます」
伊作は断言した。驚いた。
「僕はね、嬉しいんです。雑渡さんが僕に会いたいと思っていてくれたことがとても嬉しい。あなたが苦しいときに僕が支えられるんだと分かって、狂うほど嬉しいんです。雑渡さんが自分に厳しくした分は、僕がきっちり癒します。僕は、誰かの命を奪うだとか、そういう現実にはちょっとだけ臆病になります。けど、でも、だから、だからこそ……。僕に会いたいと思って下さい。遠慮なんかせずに、生きている世界を恥じずに。もっと僕を巻き込んで下さい」
目の前の伊作は、やさしく笑っていた。だから、目を逸らした。泣きそうだった。この自分より遥か年下の人間が向けてくる愛情を痛いくらいに感じて、言葉を失った。こんなにもやわらかで切実な情を尽くされたことはない。
月光が伊作の顔を輝かせる。美しさに押し潰されそうだった。
伊作の細い腕に抱きしめられた。
雑渡は腕を垂れたまま、腰が抜けたように固まっていた。伊作がやわらかすぎて、抱きしめられなかった。
終わり
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