秋蛍
「いないですねえ」
川原にしゃがみこみ、善法寺伊作はため息をついた。薄暮の森に涼しい風が吹く。
「すみません雑渡さん。せっかくお誘いしたのに」
「もうとっくに秋だからね」
雑渡は伊作を励ますように言った。川の対岸はすでに暗くなっていた。二人してその闇に目を凝らすが、何も見えない。
「でも、この時期だったらまだ残ってるはずなんですよ、蛍……」
諦めきれない様子で、伊作は森の闇を注視している。かわいいな、と思いつつ、雑渡は伊作を眺めていた。
蛍を見に行こうと誘われたのはつい半刻前のことである。季節を間違えてるんじゃないの、と目を丸くする雑渡に伊作は笑って言った。
「秋蛍っていって、珍しいんですよ」
「へええ。じゃあ見つけられたらいいことあるかもね」
伊作の説明によると、どうやら秋になっても残る蛍がいるらしかった。寿命が長いのか生まれるのが遅かったのか。理由はよく分からない。しかし伊作の言ったとおり、それは珍しいものらしい。忍術学園からそう遠くはないこの川で雑渡と伊作は待ち惚けをくらっていた。
季節外れの蛍に興味がないわけではなかった。けれど、実のところ、蛍が見れなくとも伊作と一緒にいられる時間があればそれでよかったのだ。生死と並んで生活している雑渡にとって、時間があるということは貴重だった。だから、伊作と会うことを許された今を大切にしたかった。
出会って間もない頃、雑渡にとって伊作は未知の生き物だった。初めて出会う人種というか生態というか、もうとにかく、不器用な生き方が面白いのだ。その危なげな綱渡りにハラハラした。もっと上手く世渡りできる技があるのに、と憐憫の情があった。ちょっかい出したらどんな反応をするのかな、と悪戯心も生まれた。それがいつの間にか本気になっていた。子ども相手に、などとは思わなかった。時に伊作は、大人でも子どもでもない顔をした。揺れ動く儚げなそれを見つけるたび、一人の人間として本気で接してみたいと思った。
想像じゃない生身の伊作に触れるうちに、ぐんぐんとその気持ちは大きくなり、あっという間に雑渡のこころは伊作で一杯になっていた。自分でもビックリした。
雑渡は指を握りこみ、また開いた。自分の身体に異常のないことを確かめる。明日からいくさの下調べで遠出するのだ。このかわいらしい少年にも会えなくなってしまう。自分でも本当に不思議でならないのだが、そのことは、とても心細いことのように思われた。
辺りはすっかり闇に飲み込まれてしまっていた。意識しなければ自分の手元も覚束ないほど濃い闇だ。闇を怖いと思ったことは、ただの一度もない。闇は雑渡の世界そのものだ。その世界に身を委ねて仕事をする。敵が何人だろうと味方が何人だろうと関係ない。常に与えられた闇を跳ぶだけだ。怖いものなんて何も無かった。それなのに。
雑渡は、しゃがみこんだまま唸っている伊作を見つめた。どうあっても雑渡に蛍を見せたいらしい。周囲をきょろきょろ見回しながら辛抱強く粘っている。
「もう帰らない? 残念だけど、きっと蛍なんていないんだよ」
「まだです。もう少しだけ、ね」
伊作が潤んだ瞳を向けてきた。肩をすくめて拝むように両手を顔の前で合わせている。ちらりと上目遣いでお願いされ、雑渡はくらくらした。そんな可愛い顔と仕草でお願いなんてされたら、もう折れるしかない。
伊作は自分のことよりも他人のことに一生懸命になる性質だった。いつでも頑張っていて必死で。たとえ自分の行動を周りに理解してもらえなくても、決して自分を疑ったり、曲げたり、逸れたりしない人間だった。
そんな伊作のこころの強さは、いくらか雑渡を救った。自負してもいい。伊作は、闇の中にぽっかり浮かんだ小さな光だったのかもしれない。きれいで目が離せなくて。だから、雑渡は伊作を失うことが怖かった。伊作のいない世界が怖いと思った。そう思ったら、急に目の前の伊作が闇に切り取られていくような気がした。
しゃがんだ伊作に、雑渡は背後から覆いかぶさった。奇声とともに痩せた背中がびくりと震えた。
「な、なんですか、いきなりっ」
「ふふ。暗いし、迷子になったら困るでしょ」
肩に手を回し、首筋に顔をうずめた。体重を預けるようにしてのしかかる。深く息がつける。
雑渡の回した腕を、伊作がゆっくりと握った。寸分も雑渡の拘束を拒む気配はない。しっかりと握られたその手は冷たい手だった。身体もすっかり冷えてしまっている。
雑渡は申し訳なく思った。いくら伊作が言い出したこととは言え、屋外に長く留まっているのは雑渡のためなのだ。伊作は雑渡を喜ばそうとしている。そう考えると胸にこみ上げてくるものがあった。こんな小さな身体のどこに、雑渡のことを考える場所があるのだろう。自分のことで精一杯だろうに……。
「すまない。伊作くんに風邪をひかせてしまうね」
「平気ですよ。それよりも僕の方こそ済みません」
「うん?」
「僕は自分のことばかり考えていました。これから大事なご用時のある雑渡さんに、風邪をひかせてしまっては一大事です」
「うーん。伊作くんを懐炉のかわりにするから平気」
ぺちっと手のひらで頭をはたかれた。つれないなあ。
伊作は、いつもよりちょっとだけ低い声で言った。
「正直、僕は気を張ってました」
「何でまた」
伊作の手にさらに力が込められる。
「しばらく雑渡さんと会えなくなるって聞かされて、いくさをするって知らされて、何かしなきゃって思いました。いつも僕は雑渡さんに助けられてばかりで。でも雑渡さんの役に立つなんて到底できないから、だから、雑渡さんに喜んでもらえるような楽しい思い出作らなきゃって――」
「それって酷くないかい。わたしが死ぬの前提ってことでしょ」
苦笑いの雑渡に、でも、と伊作が言った。強く握り過ぎの手が小刻みに震えている。
「でもっ、もしも万が一ってこともあるじゃないですか。このご時世、何があるか分からないし、何があってもおかしくはないんです。あ、あなたとこれから先も無駄話して笑える保障はないですし、永久に逢えないってこともあるんですよ」
「死なないよ」
雑渡はきっぱりと言った。一瞬、伊作の呼吸が止まったのを感じた。しばらくして、伊作はおそるおそるという風に言った。
「何言って――」
「聞いて」
そう言って、伊作の肩を掴んでこちらに振り向かせた。辺りが暗いためか、伊作の顔は青白く浮かんで見えた。雑渡は今にも泣き出しそうな二つの目を見つめて言った。
「わたしは死なない。まだ、死ねない。でも、それは伊作くんのためじゃない。タソガレドキのためだ。わたしには、まだやりたいことがあるし、やらなきゃいけないこともある。守らないといけないものもあるし、頼りにもされている。だから、死ぬことは許されない。でも――」
「でも?」
その先を伊作が目線で問う。雑渡は伊作のこぼした涙をそっと指で掬った。
「生きて帰きたいと思えるのは伊作くんのおかげだ」
伊作がぼろぼろに崩れた顔をしかめた。
「死なないのと生きて帰ってくるのと、違わないと思うんですけど」
「違うさ。死なないのは義務だけど、生きて帰りたいと思うのはわたしのこころからの願望だからね。つまり、伊作くんに逢いたいってこと。だから一所懸命になって思い出作らなくても大丈夫だよ。わたしの方が一所懸命になって生きて帰ってくるから」
伊作が雑渡の肩に飛びついてきた。雑渡は驚くほど軽いその身体を抱きかかえ、自分の膝に座らせた。落ち着かせるようにして背中を撫でてやる。そうすると、雑渡の肩に食い込んでいた伊作の爪も力をなくしていくのが感じられた。
しゃくり上げる伊作を抱きしめると、雑渡はこころが震えた。嬉しかったのだ。雑渡のために伊作が喜びや悲しみを体全部で表現してくれたことが嬉しかったのだ。痛みしか与えてやれない雑渡に対して、伊作の真っ直ぐさはあまりにもやさし過ぎた。
闇の中に二人きり。それでも伊作の温もりが、雑渡の存在を確かなものにしていた。世界を飲み込む重だるい闇の中でも、互いの意識を手繰り寄せ、その存在を手探りで確かめる。見えなくても、繋がろうとするこころは脈々と流れていることが感じられた。
ふいに、雑渡の目の先を何かがかすめた。息をのみ、黒々とした細流の上を注視する。闇に小さな、本当に小さな光が浮かんだ。
雑渡は伊作の肩を揺すった。
「い、伊作くん、あれっ。後ろ、早くっ」
雑渡の剣幕に押されるようにして、伊作は振り返った。雑渡の指差す方向に視線を向ける。ぬばたまの闇に淡く光が浮かんだ。伊作は歓喜の声を上げた。
「み、見ました? 今の見ました?」
「見た見た。すごいねえ。本当にいたんだ……」
消え入りそうな光だった。ひどく弱弱しい。けれど哀しさは感じられなかった。闇の中からこぼれたいのちが、ただ単に誇らしく美しいと思った。
雑渡は笑った。
「珍しいものが見れたから、何かいいことあるかも」
伊作は破顔した。思わず、雑渡は伊作を引き寄せていた。自分に向けられたその笑顔が、あまりにも甘く清らかだったからだ。離れるのが寂しいと思った。時間も季節も忘れて、ずっとここでこうしていたいと思った。伊作は素直に抱きしめられたままになっていた。伊作は雑渡の強引さも快く引き受けてくれる人だった。その寛大さが、雑渡には心苦しかった。伊作に対する想いも告げられず、伊作を待たせてばかりの自分。救われようと甘い水を求めて彷徨っているのは、いつだって雑渡だった。
無言で揺らめく光の粒が、静かに闇に溶けていった。
終わり
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