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つむじが七つ、風のなか

普通の日記に混じり、同人的要素が含まれたものもごさいます。//二次元創作小説もございます。// 以上のことから、苦手な方、閲覧後にご自分で責任をとることが出来ない方はご退場くださいませ。// 完全に、つむじ奈々個人の趣味で作っているアレコレです。//版権元および原作者様とは一切関係ありません。// そのことをご理解の上、お楽しみください。
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落乱SS 笹舟 1

落乱SS 笹舟 1 (雑伊)

今年もよろしくお願い致します。

そして、海を越えた国におられる皆様の無事を祈ります。


   笹舟 1

 塀というものには外界との仕切りの役割がある。外から内の様子を見えなくしたり、また外敵の容易な侵入を防いだりする。

 しかし、雑渡にとっては塀があろうとなかろうと関係なかった。塀ばかりじゃない。高い石垣でも深く広い川堀でもそびえ立つような壁でも飛び越えていく。どんな障害物も道に落ちている小石を飛び越えるのと大差ないと思っているのだ。だから、この忍術学園の塀など、雑渡にとっては子供だましにも近かった。まあ、この忍術学園の場所、所在事態が秘匿とされているのだ。そうそう侵入してくる外敵もいないのだろう。ともすれば塀など飾りも同然かもしれない。仮に、学園に仇なす者の侵入を許したところで、学園の中には塀よりもはるかに強固な忍びたちがいる。

 雑渡も頻繁に忍術学園に出入りをしているが、そのことで白刃を向けられたことはない。タソガレドキ軍の忍組頭を務める雑渡に恐れを抱いて関わらないようにしているのか、それとも侵入に気づいていないのか。おそらくは後者であろうと雑渡は見当をつけている。

 そんな思いにふけりながら、雑渡は塀に腰を下ろした。庭に植わった木々はすっかり葉を落とし、なんだか寒そうである。それもそのはず。もう冬がすぐ近くまで来ているのだ。日に日に吹く風の冷たさが増している気がする。

 しかし、それ以上に寒そうに見えるのは雑渡の目が捉えた一人の生徒だった。一人黙々と庭掃きにいそしんでいる。何度掃いても風が落ち葉を戻してしまうため、生徒は躍起になっていた。ふわふわとした柔らかそうな髪を振り乱して、右へ左へと駆け回っている。

「風があるときに庭掃除してるなんて。これも一つの不運なのかな」

 雑渡は含み笑いを漏らした。そうしながら、ちらりと後方をうかがった。

「なあ、お前もそう思わないか。尊奈門」

「気づいておられたのですか」

「お前の気配に気づけなくなったら、本当に忍者を仕舞いにするときだな」

「どういう意味ですか」

 不機嫌なため息とともに、雑渡の腹心の部下である諸泉尊奈門がぬっと顔を出した。

「私って、そんなにドンくさいですかね」

「少なくとも、彼よりはマシさ」

 雑渡は庭でせかせかと動き回る生徒を見つめた。

「善法寺伊作……。また、彼のことを覗きに来ていたのですか」

「今日は非番だからいいじゃん」

「良くありませんよ。大体、非番といってもそれはあくまで静養するためであって――」

「何を言っているのさ。伊作くんの姿を拝む……まさしく究極の静養じゃないか」

「本当にそう思っているんでしたらすでに手遅れな病気ですから、一刻も早くタソガレドキに戻って下さい」

「不治の病か……。伊作くんへの恋煩い……。いい。すごくいい。それで死ねるなら本望だよ」

「上司ですけど、あなたアホですね。二十一も歳の離れた子どもの私生活を覗くのが静養ですって? 冗談じゃない勘弁して下さい。ああ、また私、小頭にどやされます」

「忍者の卵の健全な育成を熟練忍者が見守る。立派な忍務じゃないか。いや、忍務というよりかは最早、義務、使命だ」

 熱弁をふるう雑渡に、尊奈門は冷めた目を向けた。

「頼まれてもいないのにおじさんに見守られても、不健全な出来事にしかなりませんからね」

 雑渡は下唇をつき出した。

「だってえ……。見守る以外に何もできないじゃない」

「善法寺くんをタソガレドキに引き込む計画はどうなったのですか」

 ずばり訊いた尊奈門に、雑渡は何も言わなかった。

 一緒に働くことができるのなら、それはそれで楽しいだろう。けれど、伊作自身がいくさの多いタソガレドキに来たがるかは甚だ疑問である。

 拒絶されることが恐ろしく思えて、雑渡は伊作に対してそういう質疑をしたことはなかった。

 もしも自分がタソガレドキの人間ではなかったらどうだろう。忍者でなかったらどうだろう。白灰色の空を見上げて、雑渡はそんな詮無いことを考えていた。

「あなた以外のタソガレドキ忍者は、善法寺くんを歓迎する体勢ですよ。善法寺くんだって少ながらず期待しているはず。それなのに……」

 語尾を濁した尊奈門であったが、雑渡には尊奈門の言わんとしていることに察しがついた。「あなたは一体何を考えているのですか」とでも言いたかったのだろう。

 自分でもそう思う。恩だの義理だのと言っては事あるごとに伊作にちょっかいを掛けてきた。一緒にいると楽しくて一番伸び伸びとできる気がした。居心地がよくて、いつまでも今が続けばいいとそんな子どもみたいなことを思っていた。けれど、時間は目の前を容赦なく通り過ぎていく。

「尊奈門は今まで何回死にかけたことがあるか覚えているか」

 唐突な質問を投げかけられ、尊奈門は太い眉をハの字にした。

「死にかけたことですか? 数え切れないくらいありますよ。ほら、覚えていますか。私がまだ子どもの頃、泳ぎの練習とか言って組頭が幼い私を川底に突き落としたんですよ。他にも狼煙を上げる練習していて組頭が私を森の中に置いてけぼりにしたものだから、森が火事になって、あやうく木と一緒に丸焦げに――」

「そうじゃなくて」

「何がそうじゃないんですか。改めて考えたら私が今生きているのって本当、奇跡なんですからね。何度組頭の手によって死の淵に追いやられたことか。忘れたとは言わせませんからね」

「分かった。忘れたとは言わないよ。記憶にございませんとでも言っておく」

 宥めたつもりが、尊奈門の怒りを余計に煽ってしまったらしい。尊奈門はぎりぎりと歯軋りした。

「いや、わたしが訊きたかったのは、忍びの仕事をするようになってから死にかけたことが何回あるかってことなんだけど」

 無駄に勘のいい部下は何かに気づいたようにはっとした。

「何情けないことを言っているんですか。どうせ、善法寺伊作がタソガレドキに来たら年中行事みたくなっているいくさに巻き込まれて早死するんじゃないか、とでも思っているんでしょう。何を今更。いいですか。忍者になると決めた時点で町人のようにまっとうな生活はありません。死んだとき体が残っていれば御の字なくらいなんですから。どこの城や大名に雇われたとしても同じ忍者なんですからね。明日に大差なんてありゃしませんよ。どこで誰に雇われようとも、忍者として勤めを果たそうとするなら、死にかけることなんてしょっちゅうでしょう」

 一息でまくし立てた尊奈門の剣幕にはすさまじいものがあった。いつの間に、そんな偉そうな口をきくようになったのだろうか。雑渡は皮肉を言ってやりたいような気持ちの反面、褒めてやりたいような不思議な心地にとらわれていた。子どもの頃を知っているだけに、部下の精神的な成長にはっとさせられる。尊奈門も確実に大人になり、また忍びとしての生き方を悟っているのだと思った。

「じゃあさ、尊奈門の夢って何だった」

「夢、ですか」

 またもや突拍子もない質問に、尊奈門の目がまるまると見開かれた。

「そりゃ、私はタソガレドキに生まれましたからね。祖父や父がそうしてきたようにタソガレドキの忍者になって、きちんとお役ももらって。タソガレドキのために尽くせる忍者になることが私の夢ですが」

「伊作くんにも夢があるんだって」

 雑渡の言いたいことが分からないとでも言う風に、尊奈門は首をかしげた。しばらくそうしていたが、やがて慎重に言葉を選ぶようにして言った。

「それは組頭と一緒にいては叶わない夢なのですか」

 まっすぐな問いかけだった。今度は雑渡が黙り込んだ。その横顔が陰る。

「組頭の夢は何ですか」

 やんわりとした声で尊奈門は言った。

「長生き、かな」

 どこかぼんやりとした調子で雑渡は応えた。

「すぐに組頭ははぐらかすんですから」

「本当だよ。長生きしてお前や伊作くんの夢が叶う瞬間を見てみたい」

 尊奈門は雑渡の言い方が矛盾していると思った。それならば、なぜ善法寺伊作をタソガレドキに引き込まないのだ。

「どうして善法寺伊作を遠ざけるのですか」

「伊作くんの夢……。忍者になりたい夢でも医者になりたい夢でも何だって、どんな望みだって叶えてあげたい。だけどわたしは」

 ふいに雑渡は言葉を切り上げた。閑散とした気配の中、冷たい風が枯葉を巻き上げる乾いた音が聞こえた。目の前では相変わらずに伊作が落ち葉と格闘している。その要領の悪い姿を見ていると、思わず手を貸したくなるような気にさせられてしまう。来るものを拒まず去るものを追わない伊作の性格ならば、雑渡の何もかもを受け容れてくれるのだろう。そんなことは随分前から分かっていた。雑渡が差し出した手を伊作が振り払うことはない。けれど、その先のことが雑渡には恐ろしく思えてならないのだ。離さなければならない時に、果たして自分はその握り締めた手を離すことができるのだろうか。

 尊奈門がじっとこちらを見つめている。雑渡を心配していることが伝わってきた。

「組頭……。組頭は善法寺くんの何なのですか」

「わたしは、伊作くんの重荷だよ」


 医務室の庭に伊作以外の人の気配はない。しいて言うならば、落ち葉が風に巻き上げられる音が聞こえるだけだ。それもそのはず。つい先日から忍術学園は冬休みに突入したのだ。今現在、学園に残っているのは伊作をはじめとする上級生と一部の下級生だけだ。上級生は課題があるため長期休暇も学園を離れることは少ないが、下級生は自分の国へ帰る者が大半だ。ただ、郷里が遠い下級生は夏休みだけ里帰りをし、あとの休みは学園に残るのが慣例となっている。

 伊作は動かしていた竹箒を休めた。その足元には浅く穴が掘ってあり、そこへこんもりとした枯葉の山が築かれている。庭を好き放題荒らしていた落ち葉を粗方片付けたところである。

「さあ、そろそろいいかな」

 誰にともなくそう言うと、伊作はふところから取り出した火打石で枯葉の山を燃やしにかっかった。乾いた葉は土のにおいをさせながら、みるみるうちに火を大きくしていく。完全に焚き火のにおいに変わったところで、伊作は一息ついた。もうもうと白い煙の上がっていく空を見上げる。

「雪が降りそうだ」

 空は焚き火の煙のように灰がかった白色で、広く重く垂れるようだった。ふいに袖から入ってきた冷たい風に伊作は身震いした。

 落ち葉掃きの次は雪掻きか、と少々げんなりしたその矢先だった。

「火遊びするとおねしょするよ」

 いきなり背後をとられ、伊作は飛び上がった。心臓まで飛び上がったような気がしたので、胸に脈があるか確認しながら振り返った。

「雑渡さん、急に現れないで下さい」

「だって、曲者って急に現れるから曲者なんでしょ。おじゃまします、なんて言ってから登場する曲者なんて聞いたことないよ」

 伊作をおちょくるようにそう言うと、雑渡は焚き火の傍にしゃがみ込んだ。上空から睨みつける伊作の視線をもろともせず、赤い炎に手をかざしている。

「はあー。冷えた身体にはありがたい温もりだねえ。ぬくぬく」

「勝手に温まらないで下さい。大体、焚き火に当たりに来たわけじゃないでしょう」

「うん。そう。伊作くんに会いに来たの。でも、肝心の伊作くんったら、ほら、冷たいでしょう。おじさんをないがしろにするでしょう。だから、この冷えた心をせめて焚き火で温めようと思ってさ」

「嫌味ですか」

「嫌味言われるのが気に障るんなら、冷たくしないでよ」

 伊作はむっとして、反論した。

「冷たくしてるつもりなんてありませんよ。大体、雑渡さんが僕をからかうようなことを言うから、つい食ってかかってしまうんです」

「えー。かわいくない。ああ、あの夜はあんなにも君は素直でかわいらしくべそなんかかいちゃってさ、二人激しく温め合ったというのに」

「何の話をしているんですか、何の」

 からかうような笑みを浮かべる雑渡に、伊作の眼光が鋭くなる。

「いつ僕があなたと夜を過ごしたっていうんですか。え。何月何日、僕が何回目の追試を受けた時ですか」

 伊作は分かりやすいくらいに怒りをあらわにさせた。雑渡の冗談は冗談にしては性質が悪すぎる。伊作は雑渡と夜を過ごすどころか、情を交わしたことも手をつないだことさえないのだ。

「ごめん、ごめん。そんなに怒んないでよ。でも伊作くんってさ、そんなに何回も追試受けてるんだ?」

「……。雑渡さんが思ってるほど多くはないですよ。まあ、ここひと月で、ひい、ふう、みい……」

 伊作は指を折り曲げながら追試回数を数え始めた。が、その指が両手分では足りなくなったところで、雑渡は「もういいよ」と言った。

「何で雑渡さんが涙ぐむんですか」

 雑渡は、よよ、と涙を拭く動作をして見せた。

「いや、なんかもう。伊作くんが可愛いやら可哀そうやらで。わたしが手取り足取り指導してあげたいくらいだよ。ついでにアッチの方も指導してあげるからさ。二人でぬくぬくしようよ」

 伊作の頬に朱がさした。

「下品ですね。それこそお断りですよ。雑渡さんなんて、焚き火に当たってれば十分でしょ」

 下から見上げるようにして、雑渡がにやにやと笑っている。

「顔赤くしちゃって」

「焚き火が熱いんです」

 そう言って、伊作は雑渡から顔を背けた。それでも、雑渡が笑っている気配が伝わってくるので、伊作の後ろ首はムズムズした。

 タソガレドキの忍組頭、雑渡昆奈門は伊作に好意を抱いていると言う。まあ、砕いてしまえば、どうやら雑渡は伊作のことが好きらしい、ということだ。

 誰かに好かれるのは頼もしいことではあるが、この関係に対してだけは伊作は複雑な心境にならざるを得なかった。

 いくさ好きの城、タソガレドキ。直接、忍術学園に害を及ぼす勢力ではないかもしれないが、一歩間違った付き合い方をしてしまえば、たちまち呑み込まれることは必須であろう相手だ。

 伊作一人のせいで、後輩たちに仇なすようなことがあってはならないと、深く肝に銘じてはいる。いるのだが。どうにも調子を崩されてしまう。しかし、そのことが伊作にはたまらなく嬉しく思えた。雑渡といると自分の感情のなかに新しい発見をする。ついつい雑渡のことばかり考えてしまうこともある。

 はじめのうちは雑渡の怪我についてあれこれ考えていた。大丈夫だろうか、酷くなってはいないだろうか、診てくれる医者はいるのだろうか。けれど、そのうちに、自分が雑渡のために何かできることはないだろうかと考えるようになった。世話を焼きたいとも思うし、尽くしてやりたいとも思った。けれど、傍にいたいというのが素直な気持ちだった。これは同情なのだろうかと随分悩んだのだが、よくよく考えてみれば同情だけなら意味もなく雑渡の名前を墨筆して慌てて塗りつぶしたりはしない。

 あれこれ理由をつけて認めないようにしてきたが、伊作は雑渡に思いを寄せているのだ。

「さあ。部屋に上がりましょう」

 燃え尽きた落ち葉に水をかけながら伊作が言う。

「招待してくれるの。めずらしい」

「招待しなくても勝手に学園に来ちゃうし、勝手に上がり込んじゃうでしょう」

 伊作が医務室の引き戸を開けながら嫌味を言うと、雑渡は笑った。

「否定はしないけどね」

 その応えに伊作も笑った。

 雑渡を座るように促すと、伊作は棚から湯飲み茶碗を引っ張り出した。医務室の常連客となった雑渡専用の湯飲み茶碗である。その少し大きめの湯飲みが伊作の手になじむようになったのは、いつごろのことだっただろう。そんなことを思いながら、雑渡と対峙して座った。

 火鉢にかかった鉄瓶が白い湯気を噴きはじめた。

「伏木蔵がいたら、雑渡さんが来てくれたって喜んだだろうに。残念でしたね」

 伊作は鉄瓶から湯を注ぎ、二人分の茶をいれた。

「随分静かだけど、学園はお休みなのかい」

「冬休みですよ。みんな里帰りをしているんです」

 ああ、と納得したように頷くと、雑渡は茶をすすった。

「雑渡さんのお里はタソガレドキなのですか」

「生まれも育ちもタソガレドキだよ。それはそうと、伊作くんは帰らないの」

 伊作はちょっと胸を張った。

「僕みたいに上級生になると、課題やら何やらで自然と里帰りしなくなるんです」

「伊作くんの場合は追試と補習で、じゃないの」

 伊作は咳払いした。

「まあ、それもあったりなかったりしますけど。六年生は就職のこともありますしね」

 就職、という言葉が出たとたん、雑渡の動きが止まった。思案顔で伊作を見る。

「君も、どこかへ行ってしまうんだね」

「何ですか。まるで僕がどこかへ嫁にでも行くみたいな言い方をして……」

 軽口で返した伊作であったが、雑渡が真剣な目をしていることに気づいて口を閉じた。

 火鉢の上で鉄瓶が怒ったような音を立てている。まるで、二人に明るい未来などないとでもなじっているようだった。伊作もそれについては否定するつもりはない。前々から感じていたのだが、雑渡は口では伊作を好きだと言いつつもどこかで伊作を遠ざけているのだ。何が原因なのかは分からない。そんなことをつらつらと考えていたら、伊作は何を言ったらいいのかも分からなくなってしまった。それは雑渡も同じだったようで、しばらく沈黙が続いた。雑渡のもとから離れていくのを引き止めて欲しいと言えない自分も、引き止めようともしない雑渡も、どちらも同じくらい卑怯に思えた。

 伊作は立ち上がると、雑渡の後ろへ回り込んだ。

「何?」

 雑渡が振り向きざまに訊く。

「動かないで下さい」

 伊作は雑渡の首筋に指の腹を当てると肩に向かって指圧した。

「誘っているの?」

「まさか。僕にそんな器量はありませんよ」

 伊作は笑いながら、やんわりと否定した。

「雑渡さん、肩を痛めてるでしょう」

 一瞬、雑渡が息を止めたのが分かった。

 出逢った頃にくらべると、雑渡の肩は少しだけ小さくなったような、薄くなったような気がした。もしかしたら伊作の手が大きくなったのかもしれないし、その両方かもしれなかった。

「……わたし、君に言ったっけ」

 雑渡は驚いた声を上げた。雑渡がそんな声を出すのは珍しいことだった。

「いいえ」

 伊作は首を振った。

「雑渡さんの動きを見ていれば分かります。なんだか今日は肩を庇うような感じだったので。それに素人目には分からないかもしれませんが、上衣の上からでも若干ですが腫れているのが見て取れます」

「……君はすごいね」

 雑渡がぽつりと呟いた。感心しているというよりかは、何だか気の抜けた様子だった。

 伊作は雑渡の不調に嫌でも気づいてしまうのだ。それは伊作の観察眼が優れていること以上に、伊作が雑渡のことを常に考え見てきたことが大きかった。一番気にかけているのは、雑渡が全身に負っている火傷についてだ。しかしその怪我が全身に及ぼす影響についても気を配っている。どんな薬を使えば、どんな治療をすれば、少しでも長く元気にいられるだろうか。

「これでも、春から医務室助勤ですから」

 伊作は雑渡の上衣を脱がせ、肩に膏薬を張ってやりながら言った。

「いつの間にそんな肩書きを背負ったのさ」

「いやね、校医の新野先生が、君は優秀だから是非とも学園に残って医務室を守ってくれ、と言ってくださったものですから」

 雑渡が襟を整えながら、人の悪い笑みを浮かべた。

「分かった。伊作くん、就職の試験に全部落ちたんでしょう」

 図星だった。

「何、傷つくことをはっきり言っちゃってるんですか。気遣いゼロですね」

「君らしいよ」

 伊作は口を尖らせた。それを見て、雑渡はけらけらと笑った。

「そんなに笑わないで下さいよ。これでも気にしているんですから」

「ごめん。でもなんだか哀れでさ」

「哀れまないで下さい。余計に傷つきます」

「まあまあ。そんなに怒らず。でもさ、これで伊作くんの夢にちょっと近づいたんじゃない。ここにいれば、忍者でいながら医者にもなれるじゃない」

 それは確かに雑渡の言う通りだった。ずっと昔から忍者になりたくて、ずっと昔から医者にもなりたかった。その夢が一度にぐんと近づいた。けれど、今の自分にとってそれが一番の望みなのかと自問すれば、そうだと言える自信はなかった。これから先、伊作が忍術学園の生徒ではなく生徒を守る立場になったとき、果たして今までどおりに雑渡は伊作と交流を持ってくれるのだろうか。伊作と会えなくても雑渡は平気なんだろうか。さまざまな不安が降り積もっていく。伊作の夢が叶ったと喜んでいる雑渡の姿がとても悲しく思えた。

 どうしてだかそのとき伊作は、雑渡の身体に触れるのもこれで最後かもしれないと思った。

「雑渡さんは寂しくありませんか」

 ほとんどささやきに近い声にも、雑渡は反応してくれた。

「そうだね。これから先はあまり会えなくなるかもね。忍術学園の関係者が評判の悪い城の忍者と仲良しなんて知れたら大変だものね」

 さらりとそんなことを言う雑渡に伊作は怒りを覚えた。

「僕だってずっと学園にいるわけじゃない。医務室で新野先生の手伝いをしながらちゃんと就職できるように勉強します。試験も受けます。それで、僕がどこかへ行ってしまっても雑渡さんは寂しくないんですか。惜しいと思わないんですか。僕はいつだってあなたの傍に行く心づもりがあるんです。あなたさえ望んでくれればタソガレドキに――」

「君とわたしは駄目なんだ」

 雑渡は怒鳴るように否定した。雑渡は伊作と視線を合わせようとせず、ただ鉄瓶の口の先を一心に見つめていた。その横顔は血の通わない人形のように色がなかった。

「……何が駄目なんですか。どうして駄目なんですか。僕のこと好きなんでしょう。僕は雑渡さんのこと好きです。駄目な理由なんてどこにもない……」

「好きだけど、好きだから駄目なんだ」

「分かりません」

 急に訪れようとしている別れに、伊作の唇がわなわなと震えた。回らない頭で、とにかく泣くまいと必死に唇と噛み締めていた。

 そんな伊作の脇をすり抜け、雑渡が戸を開けた。伊作は出て行こうとするその背中を追いかけた。その身勝手な背中に向かって「ちゃんと説明して下さい」と言いいかけて伊作の口は止まった。雑渡の震える肩が目に映ったからだ。きっと痛みだけで震えているわけではないのだろう。そう思うと、伊作は雑渡の心を剥ぎ取るような言葉は言えなかった。雑渡はむやみに人を傷つける男ではない。短い付き合いながらも伊作は雑渡の人となりをよく分かっていた。

 伊作は洟をすするようにして息をついた。

「……駄目、ですか。雑渡さん、本当は僕のこと嫌いだったんじゃないですか」

「嫌いじゃない。でも駄目なんだ。どうしても駄目なんだ。何度でも謝る。君の気が済むまで何度でも謝る。だから、わたしのことはあきらめなさい」

 伊作の頭にかっと血がのぼった。勢いに任せて雑渡をなじりそうになるのを奥歯を噛み締めてこらえた。

「謝ってもらっても困ります。あきらめるってどうやってやるんですか。教えてください。ねえ、雑渡さん。あなたと一緒でなければ僕の夢は叶いません」

 そう叫んだときには、すでに雑渡の姿は消えていた。頬に当たる風がやけに冷たいと思ったら涙で濡れていた。伊作は慌ててそれを拭った。

 伊作の一番の望みは雑渡の傍にいることだった。しかし、それももう叶わない。

 別れるとき、雑渡はいつも「縁があったらまた会おう」と言ってくれる。しかし、今日はそれもなかった。本当に終わりなのかもしれない。

 目の前を掃き残した枯れ葉が吹かれて行った。


つづく

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