笹舟 2
重荷。
雑渡の口から漏れた思いもよらない言葉を思い出しながら、尊奈門はタソガレドキへの帰路を歩いていた。
雑渡を連れ帰るはずだったが、それについてはあきらめざるを得なかった。尊奈門が止める間もなく伊作のもとへ行ってしまったのだ。重荷だから伊作とは一緒にいられないと落ち込んだ次にはもう伊作に近づいている。切り替えが早いというか、頭と体が矛盾しているとしか思えない。
さて。雑渡を連れ帰り損ねた理由をどう取り繕おうか。そんなことを思案しながら領地に入る橋にさしかかったとき、
「おい。尊奈門」
橋の下に目を向けると、川岸の砂利に高坂陣内左衛門がいた。
「高坂さん」
そういう間に、高坂はすでに尊奈門の隣に陣取っていた。相変わらず、身のこなしでは勝てる気がしない。方々から信頼を置かれている将来有望な忍びの一人である。
「川原で何をしていたんですか」
高坂は襷で袖をくくった姿だった。首をかしげる尊奈門に高坂は襷を解きながら応えた。
「漬け物石を探していたんだ」
思わぬ回答に、尊奈門は瞬きした。
「漬け物石……ですか」
「お前、忘れたのか。この間、城の石垣の修繕に丁度いい大きさだって言って、組頭が自分の屋敷の漬け物石を持っていってしまっただろ。だから代わりの石が欲しいと思ってな。でも駄目だな。もう少し上流に行かないと目ぼしいものが見当たらない」
高坂は誰もが認める優秀で忠実な忍者であるのだが、真面目すぎるところが欠点かもしれない。
「漬け物石なんて、そのへんにある物を適当に何個か見繕えばいいのではないですか」
尊奈門は尖った声を出した。雑渡を連れ帰るという忍務を果たせず多少なりとも不機嫌になっているのだ。
「お前、漬け物石なめるなよ」
高坂は怒鳴った。
「別になめてませんよ」
拗ねたような物言いをする尊奈門に、高坂は首を振った。
「いや。お前は漬け物石をなめてるな。樽と内容量に対して、石の重さとか大きさとかは重要なんだ」
「はあ」
「組頭が帰ってくるまでにと思って必死に探していたのに。なんだ。組頭を引き止められなかったのか」
「すみません」
尊奈門は殊勝に謝った。
「組頭と善法寺伊作について話していたらいつの間にか組頭が隣にいなくなっていて」
高坂は俯く尊奈門を一瞥して言った。
「そこを何とか引き止めるのがお前の仕事だろう。組頭が休暇をとっているのは静養のためだろう。肩の調子も悪いし、なにより体が弱っている」
先ごろのいくさで雑渡は肩を痛めていた。それに加え、近頃では疲れが取れにくかったり発熱があったり手足が痺れたりと不調が続いている。倒れることこそないのだが、立っているのがやっとの日もある。いくさばかりしているため、なかなか身体を休ませる機会もない。いくさが終われば、息つく間もなくまた次のいくさのための準備がある。だからこその休暇だったのだ。それなのに尊奈門は雑渡がタソガレドキから抜け出すのを止められなかったばかりか、伊作の元へ転がり込むのを防ぐことも出来なかった。
「こうしている間に、組頭にもしものことがあったら……どうしましょう」
力なく言う尊奈門に、高坂は鼻を鳴らした。
「心配いらないだろう。忍術学園には彼がいるから」
「善法寺くんですか」
高坂はうなずいた。
「万が一、組頭に何かあっても善法寺くんが助けてくれる。初めて出会ったときからあの二人はそんな風にしてお互いを生かしてきたんだ」
高坂はさも当然のように応えた。尊奈門も高坂とは同じ意見だった。
「そうですね」
「で?」
高坂は急に話題をかえるように言った。
「え」
何を訊ねられたのか分からずきょとんとする尊奈門に高坂は息をついた。
「え、じゃないだろう。首尾はどうなったかって訊いているんだ。結局、組頭は善法寺くんをどうするつもりなんだ」
「どうするって……。善法寺くんは犬猫じゃなんですから」
伊作と雑渡が親しげに話をしている様子を思い出しながら、尊奈門は空を見上げた。そこには相変わらず重そうな色が広がっている。このまま押し潰されてしまうのではないか。そんな妄想に駆られた。
「犬猫なら話は簡単なんだろうがな。拾った場所に戻して来いと言えばいい。でも相手は生身の人間だからな。一方が求めてももう片方が拒むのなら一緒にいることは出来ないよな」
「組頭は求めているのでしょうか。それとも、拒んでいるのでしょうか」
何を、とは高坂は訊かなかった。変わりに頭を一振りした。
「分からない。分からないけど、組頭が善法寺くんと共に歩むことを怖がっていることは私にも分かる」
「組頭はご自分のことを善法寺くんの重荷だと言っていました。組頭は善法寺くんにとってそれ程に重い存在なのでしょうか。一体、何をそんなに後ろめたく思っているのか私には分かりません」
尊奈門は前を見つめた。尊奈門は雑渡と伊作が話す姿をしばらく観察していたが、あの二人の姿を見る限り、互いを拒むような気配は微塵も感じられなかった。だからこそ尊奈門は、雑渡が重荷と言ったことが不思議でならなかった。
「重荷か……」
ひとりごとのように高坂は呟いた。そして、尊奈門の肩を軽く叩いた。
「組頭には組頭の考えがある。あの人だって立派な大人なんだ。先のことを考えてそうしたのかもしれない」
「先のことですか」
立派な大人は青少年の私生活を覗いたりはしません、と思いながら尊奈門は橋の下に視線を落とした。川底の砂利が流れに滲んで透けて見える。冬の川はいかにも冷たそうだった。尊奈門の目には、どこまでも続いていく豊かな流れが映っていた。
「明日のことなんて誰にも分からないのにやってもみないで諦めるのが大人なんですか」
「諦めるのではなく、ただ単に分別をつけなきゃならなかったんだろう」
「だったら、私は大人になんかなりたくありません」
尊奈門は吐き捨てた。
「お前はまだ若いんだよ。組頭くらいの歳になったら分かるかもしれないぞ」
高坂は興奮する後輩を諌めた。
「組頭は自分が正しいと思ったことをする人だ。だから今回のこともそうなんだろう。ただ、その正しいと思ったことがとても苦しいだけ……。それだけのことだ」
高坂は事情をすべて知っているかのような口ぶりだった。
「高坂さんは何かご存知なのですか」
高坂は首を横に振った。明らかに何かを知っている様子なのに、口を堅く閉ざしている。そのことが、尊奈門の不機嫌をさらに煽った。
「教えてくれたっていいじゃないですか」
「私はお前とちがっておしゃべりじゃないんだ。大人だからね」
からかうように言われ、尊奈門は頬を膨らませた。
「どうせ私は子どもですよ」
「おい。拗ねてないでお前も手伝え。上流に行って、うんといい漬け物が出来そうな石を探すぞ」
尊奈門は漬け物石探しに躍起になる高坂を見て、こんな大人になどなりたくないと心の中で悪態をついた。
年が明けると忍術学園は途端に騒がしくなる。冬休みを里で過ごしていた生徒が学園に戻ってくるのだ。
伏木蔵は授業を終えたその足で、医務室へ向かって廊下を進んでいた。授業と同時に委員会活動も始まっている。
歩きながらふと見上げた空は厚い雲で覆われていた。吹く風の冷たさに思わず背が丸くなってしまう。冬休みに入る前、保健委員長である伊作は「そろそろ白いものでも落ちてくるのかもしれない」と嫌な顔をしていたが伏木蔵は違う。雪が降ると思うとわくわくしてしまう。寒くて冷たくてしもやけも出来て、散々なのは分かっているのだがそれでも雪遊びの魅力に勝るものはない。
伏木蔵には級友の他にも歳の離れた遊び相手がいる。つい半年ほど前に知りあったばかりであるタソガレドキ忍者の雑渡だ。忍び組頭という上等な地位らしいのだが、伏木蔵は親しみを込めて「こなもんさん」と呼んでいる。伊作や伏木蔵、ひいては忍術学園に困りごとが起こると頼まれてもいないのに現れ、何かと手助けをしてくれる。用もないのに「近くまで来たから」と言って医務室でたむろすることもしょっちゅうだ。不思議な魅力がたくさん詰まったその大人に伏木蔵はかなり懐いていた。近頃では雪遊びに雑渡を誘う算段をするのに夢中だった。雪の積もったところに倒れ込んで人型を残す「死体ごっこ」もやりたいし、雪に人を埋める「生き埋めごっこ」も捨て難い。雑渡は力持ちだし伏木蔵よりもはるかに上背があるから、大きな雪だるまも作れるかもしれない。伊作も一緒に三人でたくさん楽しいことがしたい。
休みが明けてから、伏木蔵は保健委員会委員長である伊作に一度も会っていない。新しく作る薬の配合を考えたいからと言って学園にいない日が多かったからだ。自分が知らない知識を求めて文献をあさったり、はたまた遠くの村落へ出向いて民間療法を尋ねて歩いたりしているらしい。
らしい、というのは、伏木蔵はこの情報を伊作から直接聞いたわけではなかったからだ。伊作と同室の留三郎が呆れてものも言えないという仕草で教えてくれたのだ。
「伊作を見捨てたタソガレドキ忍者のためにそこまでしてやることないんだ」
留三郎は憤りながら伏木蔵にそう愚痴をこぼした。
なるほど。伊作は雑渡のために薬の研究にいそしんでいるのである。しかし、留三郎が言うところによる「伊作を見捨てた」とはどういうことなのだろうか。二人は伏木蔵がいない間にケンカでもしたのだろうか。まったく、ちょっと目を離すとこれだから最近の大人は困ったものだ。
そんなことを思いながら医務室の戸を引くと、そこに伊作の姿を見つけた。
伊作は薬草を干しているところだった。
「伊作せんぱい。帰ってきていたんですね」
伏木蔵は感極まった声を出した。
「長い間留守にしてごめんね。大変だったよね」
伊作は伏木蔵を労いつつも手は休めなかった。少量ずつ束にした薬草の根元を麻紐で縛り壁に吊るしている。かなり前から作業していたらしく、部屋の壁には横一列に大量の薬草の束が並んでいた。
「大丈夫ですよ。それよりも、それがこなもんさんのための薬草ですか」
伏木蔵は今しがた伊作が吊るした薬草を眺めた。
伊作は一瞬、驚いたような困ったような顔になったが、すぐにいつものように笑みを浮かべた。
「誰から聞いたの」
「食満せんぱいです」
「留三郎はおしゃべりだなあ」
「食満せんぱいは伊作せんぱいのことが心配だったんですよ」
伏木蔵が留三郎を庇うように言うと伊作は笑った。
「そうかもね。でもいい勉強になったよ。出かけてよかった。おかげで新しい薬も上手く作れそうだよ」
「こなもんさんに効くやつですか」
一呼吸おいて、伊作は力なくうなずいた。
「……うん」
「お手伝いしてもいいですか」
おそるおそる訊いてみると、伊作は笑顔をほころばせた。
「もちろんお願いするよ。伏木蔵が手伝ってくれた薬だって知ったら雑渡さんもきっと喜ぶよ」
道具を引っ張りだしながら伏木蔵は伊作に目を走らせた。夕暮れが近いせいか、いささか伊作の顔色が暗んで見える。
「伏木蔵」
「はい」
「お里はどうだった? お家の人は元気だったかい」
伊作は数種類の刻んだ薬草が入った小皿と二種類の油を傍に置いた。
「変わりありませんでした。休みの間中、宿題はやったの、とお尻を叩かれていました」
伊作は笑った。
「元気でなによりだね」
「伊作せんぱいはずっと学園にいたんですよね」
「そうだよ」
「こなもんさんに会いましたか」
何気なく訊いた伏木蔵のその言葉に、伊作はぎょっとしたような表情になった。
「うん……。会ったよ。でもちょっとだけ。すぐに帰ったよ。忙しいんじゃないのかな。ほら、仮にもタソガレドキの忍び組頭だし。しょっちゅういくさをしているし」
「そうですか」
そう相槌をうちながら、伏木蔵は伊作の目が笑っていないことに気づいていた。やはり何かあったらしいと察しはついたが伏木蔵がでしゃばって解決する問題だとは思えなかった。
以前に雑渡が、人と人との関係は縁だと言っていたことがある。出すぎたことをしても仕方がない。伏木蔵は伏木蔵に出来ることをやるだけだ。だから今は伊作の手伝いをちゃんとしなくてはいけない。それが伏木蔵にとっての縁を繋ぎとめる手段のように感じた。
伊作の指図通りに材料をすり鉢で混ぜ合わせていると、いつの間にか日が傾いていた。部屋に差し込む茜色の光が伊作の横顔を照らす。その丹精な輪郭に沿ってうぶ毛が金色に見えた。
束の間、伏木蔵はほうっとした。雑渡もこの伊作の美しい姿に魅せられたことがあったのだろうか。きっと、伏木蔵の知らない伊作をたくさん知っているはずだ。いや、知っていてほしい。
「なんだい。人の顔をじっと見て。僕の顔に何か付いてる?」
伊作は首を傾げていた。はたとして、伏木蔵は首を横に振った。伊作がくすくすと笑った。そうすると伊作の二重まぶたはやわらかい曲線を描く。長いまつ毛の先まで光って見えた。
伏木蔵は伊作から視線をはずし、そっと目を閉じた。どうか、二人の縁が切れないようにと強く願った。目を開けると、伊作が含み笑いをしながら伏木蔵の目を覗き込んでいた。
「見つめられると、恥ずかしいです」
「さっきのお返しだよ」
伊作はいたずらっぽく笑った。よく笑う人だと思った。伊作は普段から笑顔の耐えない人ではあるが、辛いときにも笑ってごまかしてしまうところがあった。近頃の伊作は何か辛くて悲しいことを吹っ切るために笑っているような気がしてならなかった。そのことが伏木蔵には耐えがたかった。
「今日は一段と夕焼けがきれいですね」
伏木蔵は話題をかえるようにして言った。日が短いので夕日が落ちるのもあっという間だ。茜色だった空は次第に桃色と藤色と藍色の中でまだらになっていく。
「本当。きれいだね。ここよりも、もっと山のてっぺんに行ったらきれいに見えるんだろうね。そういえば金楽寺で見た夕日がきれいだったなあ」
「乱太郎から聞いたんですけど、タソガレドキの黄昏時に見る夕日がそれはもうきれいなんですって」
伏木蔵は伊作を励ますように言った。
伊作は瞬きし、ため息のような返事をした。
「そう……。へえ。それは、見てみたかったな」
伊作は静かに笑った。どこか気だるそうなその笑顔を見つめながら、伏木蔵は伊作の物言いが引っかかっていた。伊作は見たい、ではなく見てみたかったと言った。それは一体何を意味しているのか、伏木蔵には分からなかった。ただ漠然とした不安が胸の中に渦巻く。
「時々思うんだよね……」
伊作が誰にともなくつぶやいた。
「どんな病気も怪我も治る薬が作れたらなって」
伏木蔵が黙って聞いていると、伊作は我にかえったように慌てた。
「こんなこと考えるなんて、本当、ばかだよね」
恥ずかしそうに笑う伊作に、伏木蔵は首を横に振った。
「ぼくも欲しいです。それでその薬をこなもんさんにあげるんです。そうしたらこなもんさんは伊作せんぱいといつまでも一緒にいられて、ちっとも心細くなくなるんです」
伊作がぐっと息が詰まったように顔をしかめた。
「あの人が弱っていくのを目の当たりにして……。僕はどうしたらいいのか分からなかった。正直、今でも分からない。でも、それでも。力が足りないかもしれないけど、出来るだけのことはしたいんだ。おせっかいだろ?」
自信なげに言う伊作に伏木蔵は笑った。
「おせっかいな伊作せんぱいはスリルですてきで大好きです」
泣き笑いになりながら、伊作は伏木蔵の頭をそっとなでた。
「でも、もうそのおせっかいも焼けないんだけどね」
どういうことか訊ねようとした伏木蔵を伊作は制した。
「さあ、手がお留守だよ。雑渡さんにあげる薬を作るんだろう。しっかり気合入れてやらないとね。ほら、こういう風に混ぜるんだよ」
そう言って、伊作は伏木蔵の手に手を重ねて混ぜ方を指導し始めた。落日の鈍い光が二人に張り付く。
伏木蔵に触れた伊作の手は氷のように冷たかった。
つづく
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