かさぶた
真緑の夏草に倒れ込んだ。尖った葉が頬をくすぐる。それがこそばゆくて伊作は笑った。
「余裕ぶっこいてていいの?」
伊作の腹に馬乗りになった雑渡が口角をつり上げた。地に張り付けた手首を折れそうなほど締め上げてくる。カンカン照りの太陽が二人の影を濃く重ねていた。
「余裕なんて、ないですよ……。ちょっと怖いです。でも雑渡さんに力じゃ勝てないから」
力じゃなくても、この人に勝てるものなんて一つもない。体格も頭の切れも何かに対する思いの強さも。
顔が近づいてくる。伊作は雑渡の手首に切り傷を見つけた。古傷じゃない。つい最近負ったものらしい。それは完全に塞がりかさぶたになった傷だった。青く透ける静脈を阻むような一筋の線。
伊作は目を見開いて、その赤黒い線を凝視していた。すると、雑渡がその視線に気づいた。
「何?」
「ここにかさぶたがあります」
伊作は雑渡の手首を舐めた。一瞬、雑渡はぎょっとした。しかし、すぐに生真面目な表情に戻る。
「おいしい?」
伊作は首を振った。
「いいえ。でも」
言いよどんだ伊作に、雑渡は視線でその先を促した。
この人は、自分の想いを押し付けてくる強引さとは裏腹に、伊作のどんな言葉も受け容れてくれた。決して、侮ったり突っぱねたりはしなかった。伊作のことを心底分かろうと努めているのだ。だから、いつも伊作は、自分の本当の気持ちを伝えることが出来た。
「安心しました」
伊作は言った。
「雑渡さんの血が赤い色で」
「緑色だと思ってたの?」
「あなたは傷ついたりしないんだと思ってました」
僅かに雑渡の拘束が緩んだ。動揺しているのだ。伊作は締め付けてくる手を払いのけ、今度は自分が雑渡の手首を掴み地に張り付けた。伊作は、今自分が押さえつけている手が何をしてきた手なのか知らない。でも、きっとたくさんの人を傷つけてきた手だ。たくさんの裏切りや偽りを孕んでいる手だ。骨も筋肉もしっかりしていて、頭蓋なんて簡単に砕いてしまえそうだった。それなのに、傷つけるだけの手なのに、傷が付いている。
伊作は掴んだ手に力を込めた。
「案外、簡単に傷つくんですね」
「体はね。がっかりさせた?」
茶化すように言う雑渡に、伊作は薄く笑った。
「あなたと同じものを食べても同じものにはなれないし、同じものを見てもそうでしょう。どんなに頑張ったって、雑渡さんと同じ世界を見ることは出来ないんです。見ることができないってことは、理解できないってことです。それは、一生、そうに違いないんです。だから、焦ってたんです。雑渡さんをどう見極めようかって。どうやって付き合っていこうかって。でも、今わかったんです。雑渡さんは簡単に怪我するし傷もできるし血も赤い。僕と全く同じで……つまりただの人間ってことです」
「そう、しかもちっぽけな、ね」
褐色の肌からのぞく一つ目が細くなる。笑っているのだ。
「その事実に気づいて、気づいてしまったから、だから、僕はあなたの想いから身をかわす術を知らない。でも、応え方も知りません」
どう対処するのが正解なのか分からない。
熱く膨れた風が吹く。草がざわめく。背中を汗が伝っていった。
「何も知らないし、分かってないのに不思議ですよね。雑渡さんの身体の重みがちっとも嫌じゃないんです。今はっきりしてるのはこの気持ちだけです。それでもいいですか。それでも――」
僕から逃げないでいてくれますか。
「十分すぎる十分だよ」
脱力した雑渡が倒れ込んできた。一気に重みが増す。さすがに苦しかった。けれど今、この重みは伊作だけのものだ。そう思うと指の先まで甘ったるく痺れた。重なり合った身体に熱が籠もる。全身の力が抜けていく。これを心地よいと言うのだろうか。
すぐ隣に雑渡の顔があった。見慣れてしまったにやけ顔だ。
この人は、これからもたくさん何かを傷つけるだろうし、きっと同じだけ自分も傷つける。でも、今日見たこの人の手首にあったかさぶた。あのかさぶたさえ忘れなければ大丈夫だ。
伊作は雑渡の頬に顔を摺り寄せた。風に吹かれた夏草が祈るように傾いだ。
終わり
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